役割というプロトコル、スキのコアというペイロードーー役割を纏う理由
あんたは日々、自分に与えられた役割に振り回されながら過ごしているかい。
会社では「〇〇さん」としての顔があって、家では父親や子どもの顔があって、ネットではまた別の名前で呼ばれている。
ヒトが生き残るために社会という防波堤を必要とする以上、この役割というものから完全に逃れるのは、正直ほとんど不可能だと思う。
人生を一つの物語だとするなら、俺たちはその役割をこなすことで「悪者」にも「正義の味方」にも「村人A」にもなりうる。
物語の都合や、その場の期待次第で、こっちの立場は簡単に塗り替えられてしまう。
と、こんなふうに書いておいてなんだが、俺自身は正義の味方にも悪者にも村人Aにもなりたいとは思っていない。
俺は香坂兼人として生きていたい。
俺のプロフィールを読んでくれたヒトは知っていると思うけれど、「香坂兼人」というのは俺のペンネームだ。
学生の頃から使っているので、ネット上の活動も、基本的にはこの名前でやっている。
だから、「香坂兼人」として俺のことを知っているヒトはいる。
でも、そのヒトたちは俺の本名も、住所も、会社名も知らない。知る必要がないからだ。
なぜって?
ここでの俺の役割は、システム屋としての俺でもないし、父親としての俺でも、息子としての俺でもない。
あくまで「香坂兼人」という役割で認識されているからだ。
今回は、この役割について考えてみる回だ。
ちっと、改めて役割の「役割」ってやつを眺めてみようじゃないか。
役割の効果
役割ってのは、システム屋っぽく言うならプロトコルだと思っている。
通信するときの「お約束ごと」みたいなものだ。
なに?なんでいきなりシステム屋風を吹かし始めたんだって?
たまには主張しておかないと、その俺の「役割」を忘れられちまうからな。
プロトコル、つまり通信手段の決まりごとだ。
ヒトとヒトが会話するにあたってのルール、みたいなもんだと考えてくれればいい。
例えば、日本語そのものもプロトコルの一つだと思ってもらえるとイメージしやすい。
日本語の文法、敬語、語彙、イントネーション。
それらを通じて、俺たちは驚くほど多くの感覚や情報をやり取りしている。
もっと分かりやすい例を出すなら、「手紙」を思い浮かべるといい。
拝啓ではじまって、時候の挨拶があって、本論があって、結びの挨拶と「敬具」で締める。
本当の本当を言えば、本論だけで用件は足りる。
それでも、前後に「どう考えても形式だろ」と言いたくなる口上がくっついている。
でも、この「無駄」に見える部分が、実はかなり大きな意味を持っている。
きちんとした手紙の型があることで、受け取った側は「この人は社会的な常識に沿って動ける人だな」と判断できるからだ。
極端な例を書いてみる。
拝啓 寒冷の候、貴殿におかれましてはますますご清祥のことと拝察いたします。
本年も残すところわずかとなり、改めてご厚誼に感謝申し上げます。
「馬鹿め」
敬具
こんな手紙、見たことないだろう。
中身だけ見れば「馬鹿め」一行で用件は伝わる。
だが、そこにかしこまった前後の定型文がくっついた瞬間、送り主の印象は一気にカオスになる。
「丁寧なようでいて、ぜんぜん丁寧じゃない」
「礼儀は分かっているはずなのに、あえて外してきている」
こういう「型」と「中身」のズレが、不安とか違和感として受け手に残る。
役割も、だいたいそれと同じだと思う。
役割というプロトコルがちゃんと共有されていれば、相手は安心して俺たちと接続できる。
逆に、プロトコルを完全に無視すると、「この人とはどう付き合っていいのか分からない」という不安を与える。
肩書という役割
この役割というプロトコルに、分かりやすい名前をつけたものが肩書だ。
名刺の右上やSNSのプロフィール欄に並ぶ、あの肩書たち。
肩書を背負った瞬間、その肩書に求められるものが自動的にくっついてくる。
「この肩書を名乗っているヒトは、だいたいこんな能力や責任を持っているだろう」
「こういうとき、たぶんこんなふうに考えるだろう」
そうやって、世の中との接続が一気にラクになる。
言い換えるなら、「プロとして見られる」ってことだ。
肩書は、その分野について一定の能力や経験を認められた人間だ、という看板でもある。
ヒトは肩書を背負ったその瞬間から、その肩書にふさわしい自分であろうとする。
「部長」と呼ばれれば部長らしく、「医者」と呼ばれれば医者らしく、「SE」と呼ばれればSEらしく。
不断の努力を、たぶん多かれ少なかれ続ける。
肩書きが役割を端的に示している以上、そういう行動になるのは自然なもんだ。
それは、期待に応えようとする真面目さでもあり、同時に「肩書の檻」に自分を入れてしまう危うさでもある。
ペンネームという別のプロトコル
そこで出てくるのが、「香坂兼人」というペンネームだ。
本名の俺には、「会社員」「システムエンジニア」「父親」「息子」といった、いかにも“日常的な”肩書がくっついている。
会社の中で「SEの俺」は、トラブルが起きれば原因を追い、関係各所と調整し、最終的には「なんとか動かす」役割を担う。
家に帰れば、父親として子どもの話を聞き、夫として家事をこなすロールもある。
けれど、このnoteでは、俺はそれらをあえて脱いでいる。
ここでの俺は、「システム屋の香坂兼人」ではあるけれど、「〇〇社の△△さん」ではない。
父親でも、息子でも、夫でもない。
ここでの俺のプロトコルは、「香坂兼人」という名前にひもづいたものだ。
「TRPGが好きで」「中国輸入で失敗して」「ななめ下からものを見る癖があって」「noteでやたらと文字数を使うやつ」。
そのくらいの情報で、読んでくれているあんたとの通信は、案外ちゃんと成立する。
ペンネームってのは、本名の世界とは別のプロトコルを用意するための仕組みでもある。
リアルの肩書から少し距離を取って、自分のコアに近い部分だけを前面に出せるようにするための、もう一つのロールだ。
俺にとって「香坂兼人」という役割は、
「日常の肩書から半歩離れて、本音と物語を語るためのプロトコル」
と言ってもいい。
役割がないと、たぶん立っていられない
じゃあ、役割なんて全部捨てて、素の自分だけで生きればいいのか。
そう思いたくなる瞬間も、正直ある。
でも、役割を完全に脱ぎ捨てた世界を想像してみると、かなり生きづらい景色が見えてくる。
誰も「父」でも「上司」でも「客」でもなく、ただ名前だけで呼び合う社会。
一見、自由そうに見える。
ただ、そこで会話しようとすると、いきなり難易度が跳ね上がる。
この人は、ここで何を期待されているのか。
どこまで頼っていいのか。
どこからが踏み込みすぎなのか。
その都度、ゼロから探り合いをしなきゃいけない。
役割というプロトコルは、その面倒くささをだいぶ軽減してくれる装置でもある。
「先生」「お客さん」「店員」「先輩」「後輩」。
そういう肩書がついた瞬間、やり取りの基本線は自動的に決まる。
それは、個人の自由を一部制限する代わりに、関係のコストを下げてくれているとも言える。
役割があるからこそ、俺たちは毎回オドオドしなくても、そこそこスムーズに日常を回せる。
役割に飲み込まれるとき
ただし、役割にはもう一つの顔がある。
それは、「素の自分」を飲み込んでしまう危うさだ。
肩書の期待に応えようとするあまり、
「本当はこう思っているけど、上司としては言えない」
「親としては、こう振る舞うべきだ」
と、コアから遠ざかる行動を積み重ねてしまうことがある。
やっていることは立派かもしれない。
周りからの評価もそこそこ悪くない。
けれど、内側では「なんか違う」という違和感だけが静かに溜まっていく。
これは、TRPGで設定を盛りすぎたキャラに少し似ている。
「元王族で、実は追放されていて、でも今は盗賊で、だけど魔法も使えて、聖剣の継承者で、人知れず世界も背負っている」みたいなやつだ。
紙の上ではカッコいい。
でも、セッションが始まると、プレイヤー本人もどの顔でロールプレイしていいのか分からなくなる。
役割や肩書を盛りすぎると、日常でも同じことが起きる。
どの自分が「本当の自分」か分からなくなり、「全部自分じゃない気がする」という感覚に追い詰められる。
役割とスキのコアの距離
だから大事になってくるのが、スキのコアとの距離感だ。
あんたのスキのコア。
つまり、「これをやっている自分のことは、どうしても嫌いになれない」という芯の部分。
役割や肩書を、スキのコアとまったく無関係な方向に積み上げていくと、どこかで破綻する。
逆に、スキのコアと少しでも接点がある役割なら、多少の茨もなんとか歩ける。
俺の場合で言えば、「システム屋」という肩書の裏には、
「困っている人の状況を整理して、仕組みで少し楽にしたい」というコアがある。
TRPGのゲームマスターをしていたときも、
「物語を編んで、人の感情を揺らす」というコアがあった。
noteで香坂兼人として書いているときは、
「ななめ下から世界を眺めて、物語として切り出したい」というコアが表に出ている。
肩書や役割が増えていく中で、
「それ、どこかでスキのコアとつながってる?」
と、自分に問い直すだけでも、かなり違う。
役割というプロトコル(手段)がスキのコアというペイロード(中身)にどうつながっているのかってことをだ。
だって、スキのコアは情報の根っこだけを受け取るプロトコルを持ち合わせていない。だからこそ役割を演じる必要が出てくる。
ちっとでもつながりが感じられるなら、そこには「自分で選んだ茨」の余地がある。
まったくつながりが見えないなら、その役割との距離を取り直すタイミングかもしれない。
俺たちは、このプロトコルをどう育てるか
役割は、なくては困る。
でも、役割に飲み込まれても困る。
だからこそ、たぶん大事なのは、「役割から逃げるか」「役割に従うか」の二択じゃない。
自分のプロトコルを、自分なりにデザインし直していくことじゃないかと思う。
本名での肩書きが担うプロトコル。
ペンネームでの振る舞いが担うプロトコル。
家族の前の自分、職場の前の自分、noteの前の自分。
それぞれの場で、どんな約束事を自分に課し、どこまでなら外してもいいのか。
どこまでが「ちゃんとつながるための型」で、どこからが「自分を縛るだけの鎧」なのか。
なあ、あんたはどう思う。
俺たちはこのプロトコルを、どう育てて、なんに使っていこうか。

解説動画
https://www.youtube.com/watch?v=SJqR4SVJEEU
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