174.ローマ8:28 神の下にすべてのことが共に働くと信じる
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
自分の心が探られている、と知った時、嫌な感じになるか安心するか、何が違って感じ方の違いが生まれるのでしょうか。
もし、自分の内に過ちや隠したいことがあって、それを知った人が自分を責めてくるかも、という相手に知られるなら、嫌なものです。
でももし、全く咎めることなく、かえって過ちを受け止め、良い方向に事々を備えてくれる人なら、話は違ってくるでしょう。
パウロは、神がご計画のもとに統率している中で「すべてのことがともに働いて益となる」ことに安心していられる人でした。
その安心を同じように得られる唯一の条件は、神を愛する人だと言います。
誰が、自分は神を愛していると言えるのでしょうか。
神のご計画に従って召された人。
それが、聖霊が心のなかに神の愛を注いでくれて、キリストの十字架の死が神の愛によってなされたことだとわかった人。
その人に、神への愛が生まれるのです。
神が自分に関わる一切の出来事を「益となる」と信じられるのは、私の一切の罪すらもすでに負って下さった方だと信じているからです。
考えてみましょう:聖徒であるとか、神を愛する人であるとか、公言できるほどの行為がまだ伴っていないからと、自分のために神がすべてのことをともに働かせて益としてはもらえないだろう、と思っていませんか。
