150.ローマ8:3-4 罪深い肉と同じような形
3,肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。4,それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
聖なる神の子であることと、肉をもって生まれたこととが矛盾しない存在。
もしかしたら、イエスの「肉」は、罪深い肉ではなく、「罪深い肉と同じような形」という肉体に生まれたのでしょう。
パウロが「私は本当にみじめな人間だ」と言わざるを得なかった罪深い人間には決してなるはずはなかったのです。
聖なる霊としては確かに神の御子なのですから。
一方、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1章14節)では、人と同じような形となって、ではなく、ただ「人となって」とあります。
イエスとパウロは、人間としては全く同じであっても、肉としては違うということのようです。
人間は生まれながらにして「死のからだ」となったのは、神に背く霊を持って生まれ、神に背くことが肉に深く刻み込まれて育ったからかもしれません。
新しく生まれ変わった私たちは神にならって歩むようにパウロに勧められているのですが(エペソ5章1節)、肉に染み付いている罪の習慣をリセットするというより、新しい習慣を一つ一つ身につけていくことを心がけて生きるように勧められているのです。
出会いによって私たちは変わる、と言われます。聖霊との出会いから始まった変化を、日々、楽しみにしていきましょう。
考えてみましょう:神に倣うなどということは罪人として高慢で不遜な思いだと感じますか。それともそうした可能性を嬉しいと思いますか。
