212.ローマ9:31-32 つまずいたイスラエル
31,しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
32,なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
パウロはユダヤ教の肉的な性質を看過していました。
なぜ彼らがつまずいたのか。
信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めてしまったからだ、と断定します。
本当は「霊」の問題を解決しなければならなかったのに、イスラエルは「肉」のやり方に流されてしまったのでした。
神の義を追い求めることは正しいことです。
神の義が表されている「義の律法」がイスラエルに与えられていました。
おそらくエズラ、ネヘミヤの時代以降、バビロン捕囚のような事態に再び陥ることがないように、安息日を守り、ユダヤ人の純血を守る行いに徹しようとしたのです。
ところが、律法の専門家たちが律法以外に多くの規則を追加し、民衆にも一致して行うことを強要。
専門家によって築かれて伝統となった規則集は、人々の目には本来のモーセの律法と区別がつかなくなっていたのです。
そして、「つまずきの石」につまずいてしまったのでした。
宗教規則を破っているイエスがキリストのはずはない、と思い込んだのです。
御霊に導かれてイエスが行った数々のしるしを、信仰によって見ようとしなかったからです。
奇跡を見て熱狂的についてきていた民衆も、宗教指導者たちの完全否定の態度とローマ人による十字架でイエスが死刑にされたことで、すっかり望みを失ってしまいます。
12弟子たちまでもみな、つまずいたのでした。
けれども、イエスは死人の中からよみがえります。
そこで本当のキリスト信仰が生まれたのでした。
弟子たちは、伝統的な考え方に囚われて抱いていた自分たちの期待をイエスに押し付けていた肉の過ちに、気づかせられたことでしょう。
聖なる霊によるまさに神の御子であるイエスを信じる信仰のスタートでした。
考えてみましょう:自分が望み祈ったように事が進まなかったとき、あなたは神に対して失望しますか。
