66.その信仰が義と認められます 4:5b
4,働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5,しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
律法教育を受けた人は、本来、律法が行われないと満足しないものです。
でも、その律法によれば、私たちの罪というのは普通の善行程度では償えないものでした。なぜなら、もともと神に求められているのは「神の栄光と誉れと朽ちないことを求めて、善を行う」ことに精進することだったからです。(ローマ.2:6,7)
誰がそれを完璧に行えるでしょうか。もしそうでなければ、その人は完全な神の国に住むに値しないのです。
では、私たちは、自分の「信仰」だけで救われるという教えを確信できるでしょうか。 人間の心は安定したものではなく、しばしば変化することを私たちは知っているからです。信仰も同じだろうと思ってしまいませんか?
しかし、イエス・キリストを信じる信仰は違います。キリストへの信仰とは、キリストがなさったこと、すなわち、私たちの身代わりとして十字架で死なれ、私たちの魂の救いをもたらすために復活された事実を信じることからはじまるからです。
そこで、私たちは生ける神を知り、神は私たち個人と関わってくださるのです。
重要なことは、神は私たちの心に生まれた「信仰」を決して忘れないということです。この信仰こそが義として神に認められるのです。
考えてみましょう: あなたは、信仰だけによって神によって義とされることに不安を感じていませんか?
