205.ローマ9:21−22 私への豊かな寛容
21,陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。
22,それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
陶器師は勝手に作って勝手に壊すのではありません。どの一つも、大切な作品のはずです。
しかし、造られたものが造ったものに反抗し続けるなら、怒りを受けても当然のところ。
神の怒りに関しては、どんな宗教でも教えがあって、いかに神の怒りをなだめるかが宗教儀式の中心点と言っても過言ではないでしょう。
しかし、聖書の神は、怒りを受けて滅ぼされても当然の「怒りの器」に対してすら、豊かな寛容を持って耐え忍ばれる神でした。
絶対的に全能の神は、怒りを罪人に当たり散らす神ではなかったのです。
それを知らないでいた間は、神への恐れだけが人の心を支配するものだったはずです。
あるいは、そんな神を嫌って、まるで神などいないと思うようにして恐れから逃れようとしてばかりだった、と自分を省みて思うのです。
実際の神の豊かな寛容は、私たちがその愛に気がつくように、御子の犠牲に表されたのです。
自分は、怒りの器として破壊され捨てられて終わるはずだったのに、そうはならずに、かえって命を与えられ生かされているのです。
「どうですか」と尋ねられて、いのちの恩人以上の方に何かお返しができるものでしょうか。
考えてみましょう:「どうですか」との問いかけに、あなたはどう答えますか。
