173.ローマ8:27-28 召された聖徒たち
27,人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
28,神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙のはじめで、パウロは自分が使徒として神に召されていると自己紹介していました。
次いで、ローマの「聖徒たち」が神に召された人々であることを明記。
8章のここで「召された人たち」は、「神を愛する人たち」で、「神のご計画に従って」召された聖徒たちだと言っています。
彼らの心を探る方が、この人々はご自分を愛している、と認めているのです。
いったい自分はそこに本当に含まれているのだろうか、と、不安に思う気持ちが沸き起こる時があります。
自分が御霊に導かれることを選ばず、肉の思いに戻ってしまっているような時です。
キリストを信じていたって、信じていない時と変わらない生き方をしているのなら、信仰は無意味じゃないか、と感じてしまう時です。
自分は神を愛しているなどと言えない、と思う時です。
もちろん、信仰は成長するにも時間がかかるものです。
種がまかれて、翌日に実を結ぶことはまれかもしれません。
ただ、自分の人生のある時点で、イエス・キリストの福音を聞いて、自分のためにキリストが十字架にかかってくれたこと、キリストが自分を愛してくれていることを知ったことが原点です。
キリストの愛が初めの愛。
そしてその時点が、神のご計画に従って召された時です。
パウロは、弱い私たちのためにとりなしてくれている御霊をはっきりと示し、もう一度、「罪に定められない」土台に私たちを引き戻してくれるのです。
ペテロに対して「わたしを(アガペの愛で)愛するか」とイエス・キリストが尋ねたとき、ペテロは「(フィレオの愛で)愛していることをあなたは知っています」と答えました。
ペテロのその答えをイエスは受け入れたのでした。「アガペじゃなければだめだ」とは言わなかったのです。
フィレオの愛は「友愛」と訳される言葉。イエスはペテロを、友として受け入れているのです。
自分がイエス・キリストに友と認められていることを喜んでいましょう。
考えてみましょう:あなたは、自分がイエス・キリストに友と認められていることを、信じますか。
