206.ローマ9:23 なぜイスラエルの背きをそのままに?
22,それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
23,しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。
イスラエルに対するあわれみのゆえに、異邦人に対して神は豊かな寛容を持って耐え忍ばれた。
パウロはそう言っています。
イスラエルは、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器でした。
神の栄光が与えられるために選ばれ、備えられた民族だった、というのです。
ところが、そのイスラエルが、神に背いて、約束の救い主キリストを拒否するものとなってしまいます。
イスラエルに神がご自分の豊かな栄光を知らせるために、神は何をなさったのか。
それが、怒りの器であったはずの異邦人に豊かな寛容を示し、耐え忍ばれたことでした。
刑罰を遅延したというのではありません。
のろいの刑罰を御子に下し、怒りの器に対する怒りをそれで終わらせたのです。
神の愛は、もちろんそれだけで「すべての人」に向けられる性質のものだったはずです。
しかし、実際にその愛が私たち異邦人に向けられる契機になったのは、イスラエルの反抗だったのです。
イスラエルが、今、キリストに背いている現実を、ただ非難して終わらせたり、そのまま聞き流して済ませてしまうことは、私たちにはできないはずです。
考えてみましょう:あなたへの神の怒りが豊かな寛容によってとどめられた、というなら、神に感謝して当然ですね。一方イスラエルが頑なになったことで異邦人に救いの機会が向けられた、としたら、イスラエルに対するあなたの態度はどうであるべきでしょう? あなたにイスラエルをさばく権利があるでしょうか。
