188. ローマ9:3-4 イスラエル人であるのに
3,私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。
4,彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。
パウロの大きな悲しみは、もちろん「同胞」への愛によるものですが、もっと特殊な面もありました。
彼らはイスラエル人だからです。
パウロはここまで、ユダヤ人もギリシヤ人も等しく罪人で、等しくキリストの贖いによって救われ、一つの御霊によって死のからだから救われ神の栄光に至ることを語ってきていました。
でもここでは「ユダヤ人」ではなく、はじめて「イスラエル人」と言っています。
旧約聖書の中では「ユダヤ人」という名称はバビロン捕囚の後からおもに使われ始めていて、ここでパウロが言っているような「子とされる」「栄光」「契約」「律法」「礼拝」「約束」などという事柄に関連して呼ばれているのは「イスラエル」なのです。
もともと「イスラエル」はアブラハムの孫のヤコブが、神から「勝利者」としてつけられた名でした(創世記32:28)。
パウロがこの手紙の8章で「圧倒的な勝利者」と呼んだ聖徒たちのもともとの始まりは、このイスラエルだったのです。
同胞である人々がキリストの救いを受けないままに、呪われた者としていることを悲しんでいるだけではなく、特に、もともとは勝利者の立場を与えられるはずだったイスラエル人であるのに、それを自ら拒否していることについて、悲しみ、心に痛みを覚えているのです。
私たちは、自分の同胞が今なおキリストから離れていることに悲しみを覚えるのですが、同時に、私たちもまたイスラエルがキリストから離れていることに悲しみを覚えるように、この手紙は教えてくれているようです。
考えてみましょう:"エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。" (詩篇 122:6)とありますが、そのように祈ってみませんか。
