180.ローマ8:34 キリスト・イエスのとりなし
34,だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
罪ある者かどうか、8章の段階でもパウロは繰り返し語っていますが、これも繰り返し私たちが認識すべきことなのです。
神に敵対しているのか、神の側にいるのか。
たぶん、いつも自分がどんな行動を取っているか、それが律法で教えられていることに違反していないかどうか、自分があやまちだらけのように思えて、自分で自分を罪あるものとしがちなのです。
それで、いつまでも、神も自分を罪あるものと見ているんじゃないか、と思いがち。
周囲の人達からもあやまちを指摘されてばかりでは、そんなふうに自己イメージが固まっていくのも不思議ではないように思えます。
それを全く覆してくれる言葉が、「キリスト・イエスが…私たちのために、とりなしていてくださるのです」。
誰が自分の肩を持ってくれているか。
キリスト・イエスが、なのです。
キリスト・イエスは、死んでよみがえり、神の右の座に着いて、とりなしていて下さる。
御霊が私たちの内に住んでいて、言葉にならないうめきをもってとりなしていてくださるのとは別に、キリストご自身も、とりなして下さっているのです。
キリストにあって御霊に従って歩む人のさいわいが、ユダヤ人も異邦人も、このように神によって保証されていることの恵みに、賛美と感謝をささげましょう。
考えてみましょう:キリストにあって御霊に従って歩む者とされたさいわいを、どのように他の人に伝えることができますか。
