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【学びを遊戯王へ】消えることのない炎上ー嫉妬論【心理学】

◼️はじめに

皆様、noteをご覧に来ていただき誠にありがとうございます。
日々の学びの中から遊戯王に繋がるロジカルを提供できたらと筆をとっています。雑学本を読みくらいの軽い気持ちで読んでいただきたく存じます。
その上で、悩んでいる誰かの何かの一助となれれば幸いです。


◼️今と昔

突然ですが、私の昔話に少々お付き合いください。
私が"遊戯王"というコンテンツに触れたのは小学校低学年の時です。
新番組のゴールデンタイムのアニメ枠として初代遊戯王が流れました。
主人公の武藤 遊戯が闇遊戯になり、学校や街にいるチョイ悪キャラを懲らしめるためデスゲームを持ちかけ、精神崩壊物理的制裁をしていく痛快ダークファンタジーをやっていました。

私の故郷はドラゴンボールだの幽遊白書だのと、昔のバトルアニメの再放送ばかりが流れていたアニメ過疎地なのですが、そこにぶち込まれた待望の新アニメ枠。(殴ったり殴られたりではない)新しい切り口で展開される内容は単純に「このアニメおもしれー!」と齧り付くのは至極自然な流れでした。
卵から生まれた雛鳥が親についていくが如く、テコ入れされて徐々に"カードゲーム"と言うコンテンツをメインにした構成にシフトしていったとしてもなんの違和感もなく受け入れました。

しかし、初代"遊戯王"のルールは全くわかりませんでした。フォーマットどころか作っている会社もKONAMIではなくバンダイで、今とは全く違うものです。
「いざ決闘!」と言っても、強いモンスターを並べるか闇遊戯を使うか程度の殴り合いでしかなく、結局友達と見せ合いっこしたり、鑑賞するためのツールでしかありませんでした。
それでもバンダイ産のカードには人を惹きつける力があったと思います。少なくとも私のなけなしのお小遣いはカードダスに飲み込まれていました。

月日が経ち、カードダスから出てくるカードがバンダイからKONAMIに変わった時「なんか色が変わって雑魚になった」カードを見て少々萎えたのを覚えています。

そんな折の正月、親族で集まった時のことです。お年玉を貰う恒例行事を済ませ、親に回収される前にお年玉を握りしめて一つ上の従兄弟とともに百貨店のおもちゃ売り場に行った時、従兄弟は指をさして言ったのです。

この遊戯王カード遊べるらしいぜ!」

存在は認識していたものの"あの色の変わった方だよなー"と当然半信半疑。
しかしその疑問はすぐに払拭されます。
従兄弟がノリノリで封を切り、それに釣られるようにワクワクを感じます。
基本はバンダイ産のように、カードで殴りあうのですが、"装備魔法"や"罠"と言った概念が新鮮すぎました。本当に落とし穴にはめるような感覚にゾクゾクしたのです。

冬休み明け、同級生も"お年玉のちょうどいい使い道"として私と同じような体験をしていたようです。

このゾクゾクを求めて遊戯王というコンテンツに触れている時間が増え、中学、高校と時は流れます。

が、"勝つための情報"を得るにはショップに通っている"強い人"と仲良くなる、ブログなどで発信してくれている情報を掴みに行く、と言った方法が必要でした。
小中学生の時は部活やゲームで楽しくも忙しく、"遊戯でワイワイ楽しく遊びたい"という感覚が強く、そこまでして情報を得に行く気にはなりませんでした。高校になり行動範囲も広がりはし、"勝ちたい"という向上心がある友達もショップでできましたが、それでもあくまで「楽しく過ごしたい」と言う認識でしかありませんでした。

昨今ではSNSや動画を一個人が簡単に作成、発信することができるようになりました。また、繋がっていれば最新の情報がスクロールしているだけで手に入ります。
その中には"勝つための情報"も存在しているため、それを得るのも、容易いな環境であることが示されます。

"勝つことができる"、"新しい構築や展開を発信できる"というのは素晴らしい反面、自分には関係のない些細なトラブルが目に入りやすくなっています。

昔の様な閉ザサレシ世界にも当然トラブルはありました。
しかし、いざこざがあったとしても、当事者がわかりやすく村八分にあうか、その人を残して拠点が変わるか、その関係する人の中で解決しするか、いずれにせよ収束します。
この点は今も昔も変わらないでしょうが、人の目に触れてしまう機会が圧倒的に異なります。

◼️トラブルの素

トラブルを回避できるのであればしたいと考えるのは自然な流れかと存じます。であるならば、トラブルは何から生まれているのかを考えることが妥当です。

また昔話に耳を傾けていただきたいのですが、今度は歴史を振り返ります。
19世紀後半から20世紀にかけて民主化が拡がるにつれ、ブルジョワジー(中産階級)や労働者階級の購買力が高まり、贅沢品を消費することができるようになります。
19世紀までは、消費力、或いは閑暇を誇示するために権力を持つ者が用いていた力です。実は19世紀までは嫉妬は恥ずべき非道徳的なものとして扱われてきました。
しかし、19世紀後半頃からは、人々を満足に突き動かすポジティブ感情として真逆に捉えられるようになってきました。この点を言及すると嫉妬と資本主義は親和性が高いことがわかります。

19世紀後半から嫉妬について色々な考察が深まったようです。

『正義論(ジョン・ロールズ)』は一度自分の立場を忘れた状態(無知のヴェールを被る)となったのなら普遍的な正義に辿り着くと考えました。
その後、21世紀には『気概論(フランシス・フクヤマ)』により、承認を求める魂(気概)要するに承認欲求が民主主義に危機をもたらし、その中には『対等願望(他者と対等なものとして認められたい欲求)』と『優越願望(自分の優越性を認めさせようとする欲望)』があることを論じている。その上で「民主主義の長期にわたる健全性と安全度は『優越願望』が市民の役に立つような形での良質かつ多数のはけ口をもっているかどうかにかかっている」と洞察しました。

つまり嫉妬は何も持っていない状態であれば抱くことはないものの、根っこには2つの願望(対等願望と優越願望)があるせいで現実的には発生してしまうもの、だとのことです。どちらも他者からの承認を求める欲求と関連しています。嫉妬はこれらの願望が満たされないことによって生じる感情です

これを知った時、昔、トラブルが発生した際の大半は「アイツに引きだけで負けて悔しかったから」とか「アイツは店長と仲がいいから不正してもお咎めがないんだ」とか些細な嫉妬から派生していただろうことを思い出しました。

◼️嫉妬を理解する

トラブルの素に嫉妬が絡んでいるというのがイメージできたので、より"嫉妬"を深堀したいと思います。

願望が2つに分かれるように、嫉妬も"良性嫉妬"と"悪性嫉妬"の2つに分かれます。

良性嫉妬:隣人への敵対的な感覚を伴っておらず、どちらかと言えば優れた隣人への賞賛や憧れを示すもの。
悪性嫉妬:精神的な痛みを伴うもので、さらに本質上、隣人への敵意を持った感情である。悪性嫉妬に支配されると嫉妬者は相手の破滅を望むようになり、また嫉妬者自身もその感情に苦しみ、破滅することもある。

また、上記以外にも類似の感情も存在しています。

義憤:嫉妬の一種ではないが、「不当な幸運に苦痛を覚えること」で、とても意地の悪い人物が善良な人を差し置いて成功を手にする時に感じる感情。
ジェラシー:嫉妬よりも無害なヤキモチ。持っているモノを奪われるなどで喪失に関わる場合に発生。嫉妬は持っていないモノに対して抱く欠如に関わる。攻撃と防御の関係。

これを認識した上で、さらに昔にさかのぼります。

大工は大工に、焼物師は焼物師に焼き餅を焼き、歌人は歌人を、乞食は乞食を小突き回すわけだ。

ー古代ギリシャの詩人ヘシオドス『仕事と日』ー

この時代からすでに、嫉妬の感情は「比較可能なもの同士の間に生じている」ことを観測できます。しかも、単純に自分より優れている者に対して発生するのではなく、優れていない者にも発生するという不思議な現象が発生しています。
嫉妬は隣人にも、上方にも下方にも比較出来てしまう程度の距離間で生まれてしまいます。

「友人が成功するたびに、私の中の何かが少しずつ死んでいく。(ゴア・ヴィダル)」

昨今では、カードショップがより拡大し、家に居ながらにしてもネットショップでカードが手に入りやすくなりました。
新規カードが排出されて、即座に展開や構築を考えた起源主張をしたとしても、それと同等かさらに上回る情報をSNSで投稿され、それを使った別の人が大会で活躍したり、有料noteを売って利益を得ている、など情報や連鎖が止まりません。
SNSにより過剰に縮まった距離感が自分もそうなっていたはずなのに・・という"手が届きそうで届かない"が可視化されてしまう環境を作り、人はトラブルを内包して化け物となってしまうわけです。そして化け物は炎上渦中の人となってタイムラインを汚すモノとなってしまうわけです。
しかし、化け物自身も、化け物になりたくてなったわけではありません。また元々そういう素質は誰しもが持っていてもおかしくはありません。

意図しなくてもトラブルを発生させてしまう可能性は自分にもあり、目に入れたくなくともトラブルは存在してしまいます。
トラブルをゼロにするのは全員がSNSを辞め、資本主義を辞めるよう声をあげているの同義で、それは容易に難しいと感じられるはずです。
であるならば、その根幹となる自分や他人の嫉妬を理解し、少しでもTLが正常化されることを期待しています。

◼️最後に

今回はこちらの本を参考にさせていただきました。

『嫉妬論』山本圭(メルカリリンク有)

誰かへの嫉妬を認めることは、同時にその人物に対する劣等感を認めることにもなるのだ。これは当人の自尊心を大いに傷つけるものであり、なかなか受け入れられがたいことだろう。

ー嫉妬論(山本圭)ー

嫉妬の矛先を回避する戦略が紹介されているので、さらに"嫉妬"から社会を考えたい方は、手に取っていただけますと幸いです。

他にもいろいろnoteを書いておりますので、よろしければ覗いていただければ幸いです。いいねフォローをしていただけますと私の励みとなりますので、ぜひよろしくお願いいたします。
それではまたの機会に。


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