『続グッド・バイ』コールド・ウォー(四)
玄関の戸越しに響いた声は、低く、分厚く、田島が最も恐れる種類の響きを持っていた。ケイ子の兄、元軍人、シベリア帰りの男。戦争と寒さを食い過ごしてきた男の、有無を言わせぬ迫力である。
「あの、雑誌社の田島ですが、水原先生にご相談したいことが…」
田島は、キヌ子と並んで立ち、努めて冷静なトーンで言った。
「妹は風邪で臥(ふ)せっている。仕事の用件は断ったはずだ。すぐにお帰り願いたい。」
田島が言い淀(よど)んだ瞬間、キヌ子は大きな鼻息を鳴らした。肉まんを嚥下(えんげ)する際の、一種の唸(うな)りにも似た音である。
兄は静かに戸を開け、その巨大な体躯(たいく)を現した。着古した軍服のような上着を着た、無骨でがっしりした体格だ。顔には、シベリアでの苦労を刻んだような深い皺がある。
「そもそも、妹は風邪で臥せっている。仕事は当分ダメだと、先ほど伝えたはずだ。これ以上は、迷惑をかけることになる。なぜ、そちらの用件は断ち切れない。」
兄の鋭い視線は田島を射抜くが、すぐに田島の横に立つ異様な美貌の女に釘付けになった。
「それで、そちらの女は誰だ。仕事に関係の無い者が、どうしてここへ来る。この、美しいが頭の悪そうな女は。」
キヌ子は、兄の侮蔑(ぶべつ)に動じることなく、静かに立っている。彼女の口元には、大きな鼻息が時折鳴るだけである。
「あ、あの、この者は、わ、私の妻です。家内です。病いの妹さんとの、その、仕事は、もう、わ、私のほうで、永遠に断ち切りたい。そう申し上げに来ました。」
兄の威圧感が強まるにつれて、田島は徐々にキヌ子の背後へと体を傾け、恐怖のあまり言葉がもつれた。彼は冷や汗を流しながらも、言葉を繕い続けた。
「妻だと?貴様の妻がなぜここに。貴様は、その女を連れて、病気の妹に何の用件がある。」
兄は、キヌ子の美貌の威圧感に一瞬たじろぎながらも、すぐに田島の弱々しい言葉の裏に、別の目的があることを察した。
「私は、貴様らの汚い金の匂いを嗅ぎに来たのではない。妹の体を案じている。すぐに立ち去れ。」兄は静かに、だが巨大な拳を握りしめた。
田島は、兄の威圧感に全身が麻痺(まひ)するのを感じ、たまらずキヌ子の裾(すそ)を掴んだ。キヌ子は、ただ静かに立っている。
【続】
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【原作】
太宰治『グッド・バイ』(新潮文庫、1972年)
【小説/画像】
Geminiで生成しました。
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