『続グッド・バイ』コールド・ウォー(五)
兄は、キヌ子の異様な美貌と、その背後にいる男の弱々しさとの、奇妙な不釣合いに苛立ちを覚えていた。シベリアの凍土(とうど)で鍛えられた男の威圧感が、怒りとなって空間を圧迫する。
「まだ居るのか。今すぐ妹の家から出て行け。これ以上は、許さんぞ。」
田島は、キヌ子の裾(すそ)を掴(つか)んで震えながら、必死に言葉を絞り出した。
「い、いや、私は、妹さんの体を案じておりまして…これ以上、お仕事をお願いすること、そのための報酬をお支払いすることが、もう、わ、私にはできません。金銭的な余力もありません。これ以上は、ご迷惑に…」
兄は、田島の卑屈(ひくつ)な言葉の裏にある「汚い金」の匂いに、さらに顔を歪めた。彼は田島ではなく、その隣に立つ、一切の感情を持たない美しい女に、すべての苛立ちを向けていた。
「金だと?貴様らの金の話など、もう聞きたくない!失せろ!」兄は、静かに、だが巨大な拳を、キヌ子の眼前で再び握りしめた。
田島は、その拳から発せられる殺気のような圧力に、全身の血が凍りつくのを感じた。彼は、ほとんど悲鳴に近い呻(うめ)き声をあげて、さらにキヌ子の裾に縋(すが)りつく。
キヌ子は動かなかった。兄の拳は、鉄のように固く、彼女の顔の高さにあった。田島は、事前にキヌ子へ命じた通り、彼女がこの男の腕を軽く取り押さえるのを、ただ祈るしかなかった。
キヌ子は、握りしめられた兄の巨大な拳(こぶし)に、何の予備動作もなく、ただ手を添えた。
兄は、全身の力を一瞬で抜き取られたかのように、大きくのけぞった。
「ぐっ……!」
声にならない呻(うめ)きが、兄の喉から漏れた。キヌ子の細く美しい手が触れた瞬間、兄の強大な拳は、ただの空気の塊に変わった。キヌ子は、兄の拳を掴んだまま、静かに横に押しやった。兄の巨体は、その一押しで玄関の戸から完全に退けられ、壁に背を打ちつける形で押しつけられた。
キヌ子は、無表情に兄を見下ろした。兄は、壁にもたれかかり、呼吸を乱していた。彼の目は、恐怖に変わっていた。彼は、この美しい女が持つ圧倒的な「怪力」によって、自分の威圧が完全に無力化されたことを、全身の痛みで悟ったのだ。
【続】
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【原作】
太宰治『グッド・バイ』(新潮文庫、1972年)
【小説/画像】
Geminiで生成しました。
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