『続グッド・バイ』破滅(一)
九人目の相手は、トキエといった。
三鷹の裏道にある古ぼけた居酒屋で、田島が酒を飲んでいるところに、彼女は現れた。洋裁塾の講師をしているというトキエは、地味ながらも流行を取り入れたおしゃれな服装で、清潔感があり、一見すると他の愛人たちのような派手な虚栄心は感じられなかった。彼女は店で唯一、酒を頼まず、ひたすら静かに冷奴をつついている女であった。
田島は、そんな孤独な彼女に、これまでの愛人たちにはない、何か決定的な「諦念」のようなものを感じ、そこから逃れるように声をかけたのだった。
だが、その付き合いは短く、田島が別れの手紙を投函したのは、先日の騒ぎが落ち着いてすぐのことであった。田島は、これまでの経験から、女たちは別れの手紙を受け取った後、泣きわめくか、金銭を要求するか、あるいはミヨやハツのように「報復」をしてくるかのいずれかであると予測していた。
しかし、トキエからの返信は、そのどれとも違っていた。
数日後、田島がキヌ子と落ち合った銀座の喫茶店で、彼はその返信をキヌ子に渡した。キヌ子は、黙って封筒を受け取る。
田島はコーヒーを啜りながら、顔を青くした。
「読んだかね。あの文面。どういうことだ。」
キヌ子は薄い封筒から、折り畳まれた一枚の紙を取り出し、ケーキを食べながら、無言で読む。
そこには、たった三行、流れるような美しい筆跡で記されていた。
「あなた、ケチね。もう、あなたを離さないわ。ご一緒に、死にましょう。」
キヌ子が紙をテーブルに置くと、田島は思わず身を乗り出した。
「ああ、そうだ! あの女は本気だ。気が狂っている。別れるというのに、なぜ一緒に死なねばならんのだ。」
田島は、いま、なんとかして妻子を東京へ呼び戻そうとしている最中だ。死んでいる場合ではない。
キヌ子は、無表情なまま、その鴉声を低く発した。
「バカだわ、あなたは。妻子が待っているから、女と別れるんじゃないの。生きる理由があるから、別れるのよ。」
「うるさい! 屁理屈をこねるな! だが、どうする。あの女は、私が生きようとすれば、私を道連れにしようとするだろう。」
「さあね。私を、そいつのところへ連れて行ってちょうだい。私は、あなたの偽りの細君なんだから。」
キヌ子は、トンカツを頼もうとするのを何とか田島に制され、仕方なくミルクティーを一口啜った。田島は、彼女の口元が動くたびに、いつあの鴉声が飛び出すかと、胃の腑が締め付けられる思いであった。
「とにかく、死のうなどという発想そのものが、私とはかけ離れている。私は、これから、生きなければならんのだ。」
田島は、この別れが、これまでの愛人たちとの「金銭や体裁の清算」ではなく、「生と死」という根源的な対決であることを悟った。彼は、このままでは自分の「グッド・バイ」の旅が、心中という最悪の形で強制終了させられることを恐れた。
「トキエは、私の別れの手紙に、一銭の言及も無い。ただ、死のうと言っているだけだ。」
キヌ子は、白い手袋をゆっくりと外し、田島を見つめた。
「彼女は、あなたが生に飽きていることを、誰よりもよく知っているのよ。あなたもまた、心中を望んでいると、見抜いているのよ。」
キヌ子の言葉は、田島の核心を鋭く突き刺した。確かに、数々の愛人と別れながら、彼は常に、その成功の後に底知れぬ徒労感と虚無を抱いていた。
「バカ言え! 私は生きる。キヌ子、君が、この別れを成功させてくれ。報酬はいくらでも積む。」
「あなたは、まだ死んではダメ。あなたには、私の報酬を、死ぬまで払い続けてもらう義務があるわ。」
キヌ子は、無表情なまま、にやりと笑った。それは、この世の欲と、図太い生命力に満ちた、悪魔のような笑いであった。
【続】
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【原作】
太宰治『グッド・バイ』(新潮文庫、1972年)
【小説/画像】
Geminiで生成しました。
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