『続グッド・バイ』コールド・ウォー(三)
田島は汗を拭(ぬぐ)った。田園調布の瀟洒(しょうしゃ)なアパートメントの外壁が、夏の強い日差しを跳ね返している。その光景は、田島自身の熱っぽい煩悩(ぼんのう)を、ただひたすらに冷徹に拒んでいるように見えた。この建物の中に、最も厄介(やっかい)な愛人の一人、洋画家の水原ケイ子が住んでいる。そして、彼の心を何よりも重く圧迫しているのが、シベリア方面からの引揚者(ひきあげしゃ)で乱暴者であるケイ子の兄、元軍人だ。
「いいかい、キヌ子。もし、あの男が腕を振り上げたら、君は軽く取りおさえてくれればいい。弱い人間らしいからね。」
田島は、隣に立つキヌ子に、ひどく丁寧な言葉遣いで囁(ささや)いた。まるで、神聖な依頼をするかのように。
キヌ子は答えなかった。ただ、田島が道すがら買い与えた、蒸したての肉まんを口いっぱいに頬張(ほおば)っている。その小さな口から肉汁が溢(あふ)れ、美しすぎる横顔には一片の邪念もなかった。彼女の関心は、目前の任務ではなく、口の中の肉まんと、その次の食事にあるのだ。
田島はそんなキヌ子の姿を見て、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。彼女の巨大な食欲と、それを満たすためなら平然と嘘の芝居を打てる無垢(むく)な図太さ。それが、今の田島が頼れる唯一の「力」だった。これまでの人生、彼は自分の優しさや弱さを盾に、女たちから逃げ回ってきた。しかし、このキヌ子の前では、彼はただの食費の稼ぎ手でしかない。
この取引が始まって以来、田島は次々と愛人たちに「グッド・バイ」を告げてきた。どんでん返しのたびに、キヌ子は怪力と美貌を駆使し、田島を救い出した。その華々しい手際を見るにつけ、田島は、キヌ子という存在が、自分を取り巻く全ての煩悩、そして醜(みにく)い現実から切り離された、純粋な生命力の結晶のように思えてきたのだ。
彼女は計算高い。しかし、その計算は金と食欲にしか向かわない。感情の綾(あや)や、男女の愛憎(あいぞう)など、彼女の辞書には存在しない。その、あまりに清々しいまでの非人間性に、田島は得体の知れない安堵と、道具としての最大限の信頼を抱き始めていた。
「この女さえいれば、私は救われる。もはや、故郷へ帰る必要など無い。」
この厄介(やっかい)な別れの儀式が終わったとしても、この力の源であるキヌ子の側を離れたくない。その強い依存の気持ちは、彼の人生の全てを、「逃げ切りたい」という本能に差し替えるほどに強かった。
「行こう、キヌ子。」
アパートの玄関へ向かう一歩を踏み出す。彼の背中は、もはや愛人との別れを恐れる男のものではなかった。それは、己の弱さを救うために強者にすがる男の背中だった。もちろん、この強者が自分の心にある「愛」には一ミリも関心がないことは、田島自身が一番よく知っていたが。
玄関の戸を叩き、ケイ子の兄と名乗る男の、太く力強い声を聞いた瞬間、田島はキヌ子の陰(かげ)にそっと隠れた。
【続】
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【原作】
太宰治『グッド・バイ』(新潮文庫、1972年)
【小説/画像】
Geminiで生成しました。
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