『続グッド・バイ』破滅(三)
トキエは、キヌ子の示したおどろくべき怪力、そして死の誘惑を前にしても揺るがないその図太い生命力に気圧され、ナイフを持つ手をわずかに震わせたまま立ち尽くしていた。
だが、洋裁塾の講師という知的な外見の裏に潜む狂気は、すぐにその平静を取り戻した。トキエはふっとナイフを下げ、田島を正面から、一切の感情を排した目で射抜いた。
「あなたは、なぜそこまで生きることにしがみつくの、田島さん。」
トキエは静かに問うた。
「妻子がある? 義務がある? それはすべて、あなたが生への執着を失っているからこそ、必死に作り上げた虚飾よ。あなたは、死ぬことすらできずに、生に裏切られ続けている。本当は、私と死ぬのが一番楽で、一番誠実なはずでしょう。」
トキエの声は優しかったが、田島の魂の最も傷つきやすい部分を叩いた。
「あなたは、生に飽きているくせに、死ぬ勇気もない。誰よりも破滅を望んでいるのに、破滅から逃げている。愛を語るくせに、愛から逃げている。田島さん、あなたは、生への執着がない、最も卑怯な人間だわ。」
田島は激しく動揺した。トキエの言葉が、自らの核心を正確に突いていることを知っていたからだ。彼は愛人たちと別れる成功を重ねるたび、その後に訪れる虚無に耐えられずにいた。
この心中という誘惑は、その虚無を一気に埋めてくれる、破滅という名の甘い逃避であった。田島は、危うくその誘惑に身を委ねそうになった。
その時、田島は、彼の隣で不動の山のように立っているキヌ子を見た。キヌ子は、トキエの罵倒にも、田島の動揺にも、契約通り一切の反応を示さない。ただ、彼女の体全体が、田島とトキエの間を、無言で分厚く遮断している。
「うるさい!」
田島は、自己防衛のためにキヌ子の存在を最大限に利用しようとした。半分は虚勢、半分は本心だった。
「あなたの誘惑は、確かに美しい。だが、もう遅い。私の心は、この女の持つ生への厚かましいほどの欲に惹かれ始めているのだ!」
キヌ子は、田島が自らの心を売り渡すような台詞を吐いても、表情を変えなかった。その無関心な様子が、田島にはかえって救いとなった。キヌ子は田島の言葉を評価しない。ただ、彼の生を、図太く守っている。
田島の言葉を聞き、トキエの顔から最後の生気が失われた。田島が「死」から「生」へ傾いたことを、彼女は決定的に悟ったのだ。トキエは持っていたナイフを、カタンと音を立てて床に落とした。
「そう……あなたは、生きるのね。」
トキエは、深い絶望の色と共に田島を見据えた。
「あなたは生きるでしょう。けれども、その里心は、何の慰めにもならない。あなたを救わないわ。あなたは、また平凡な生活という名の虚飾の中で、静かに朽ちていくのよ。」
それは、田島の卑怯な決断に対する、痛烈な破滅の予言であった。
田島は、トキエの予言に戦慄した。だが、今この場では、ともかく「生きる」という一点にしがみつくしかなかった。彼は、トキエの病的な狂気が自分を死へ誘う「毒」であり、キヌ子の持つ無遠慮で図太い生命力の威圧感が、自分の死にかけた魂を現実世界に繋ぎ止める最も必要な「薬」であると、確信するに至った。
【続】
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【原作】
太宰治『グッド・バイ』(新潮文庫、1972年)
【小説/画像】
Geminiで生成しました。
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