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湯治

3月某日。
寛解から1ヶ月。

ふと思い立ち、徳島へ。
徳島には、縁もゆかりもない。
四国に降り立ったことすらない。

「療養の身でありながら、友人や家族の心配をよそに、旅行なんてしても良いものだろうか……粛々と、毎日を過ごすべきではないのだろうか。」

自粛、という文字が過ぎったこともある。
しかし、同時に思い出した「湯治」の文字。
昔、群馬にある『積善館』を調べていた時、ふと見かけた文字だ。

今こそ、湯治をするのにベストタイミングではないか。
その上、短期間住み込みで仕事しながら湯治に出向く(『フリーアコモデーション』というもので今回の旅に出た)のだから、旅行というより、仕事復帰に向けた肩慣らしだろう。
誰に言われたわけでもないのに理由をつけて、つくづく真面目すぎる性格だと、書きながら思う。

「がんサバイバーだからって、粛々としなければいけない理由なんてないし、むしろこれまでのご褒美を、湯治という形で与えよう!」

葛藤を乗り越え、いざ、人生初のひとり旅へ。


何とも陽気なお出迎え。

「ひとり旅! 徳島! わくわく!」
念願の四国に足を踏み入れ、心を躍らせていた。


「未到の地だし、ぐずついた天気だから、ちょっと楽しちゃお〜。」
鳴門海峡の渦潮も堪能しつつ、宿までタクシーで向かうことにした。
運転は、とても気さくなおばさまSさんが担当して下さった。
聞き上手な方で、つい身の上話に花が咲いた。
出身が青森であること、人生で初めて徳島へ来たこと、普段は看護師をしていること、看護学生の教員としても働いていること、最近になってがんを経験したこと。
「まだお若いのに、たくさんの人生経験がおありなんですね……だからこそ、仏のような広いお心を持っていらっしゃるんですね。
今日、こうしてお話できて、良かったです!」

Sさんは去り際にそう一言添えて、笑顔で私を見送り、宿を後にした。

「Sさんにお会いできて、喜んでもらえて良かった……タクシー代以上に、価値ある時間だったなあ。」
温かい想いを胸に、宿へ足を踏み入れた。


何ともかわいらしいお出迎え。

お邪魔したのは『ホテル白い燈台』
保護猫の暮らす宿だ。

「おばあちゃん家を思い出すなあ。」
館内には石油ストーブの懐かしい香りが漂っていて、まだ肌寒い春先の空気をじんわりと温めていた。

一寸先は猫。
保護猫が暮らしている、とは聞いていたが、どこもかしこも猫がいる。
その上、みんな人懐っこい。


愛くるしい肉球。
お尻ぽんぽん待ち。
撫でられ待ち。

猫好きの友人にこの宿の話をしたところ、猫カフェよりも寄ってくるらしい。
猫の餌のニオイや多少の獣臭さはあるが、猫を飼ったことのない私ですら大丈夫な程度。
私が泊まった従業員専用の部屋はほとんど気にならない程度で、客室は全くニオイがしなかった。
人間の香水の方がよっぽど臭い。
猫好きの方はぜひ足を運んで欲しいところだ。


ありとあらゆる猫と戯れる中で、1匹だけ、じっとこちらを見つめている猫がいた。
毛の長い、体格の良い黒猫。

暗闇から熱い眼差し。

しばらくするとどこかへ姿を消してしまった。
まあ、後で顔を出してみるか……


宿はとにかく静かで、耳を澄ますと波の音だけが響いてくる。
正直、実家でもこんなに心が休まることはなかった。
窓の外に目をやれば、一面に広がる、翡翠と群青を混ぜた綺麗な海が広がっている。
元来より青色が好きな私にとって、これ以上ない憩いの場だった。


夕食を終え、露天風呂で満月を眺めた後、ふとあの黒猫のことが頭に浮かんだ。
「もうあとは寝るだけだし、ちょっと覗いてみようかな?」
静かに大浴場を後にして、黒猫のいた階へ。


(続く)

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