情報セキュリティと地政学 — 第1回 カスペルスキー排除の裏側にある、 国家の力学。
セキュリティの仕事をしていると、ここ数年でひとつの言葉を耳にする頻度が明らかに増えました。「地政学的リスク」です。
会議の場で、インシデントレポートの中で、あるいはベンダーの製品採用審査の場で、この言葉が自然に使われるようになっています。カスペルスキーの製品が西側諸国から締め出されたとき、Huaweiの通信機器が排除の対象になったとき、ウクライナ侵攻後にロシア系と思われるサイバー攻撃が急増したとき——そのたびに「地政学的リスク」という言葉が使われてきました。
でも、「地政学的リスクへの対応が必要だ」という言葉を聞いて、「それって具体的にどういうことですか?」と問い返せる場面は、あまり多くないのではないでしょうか。なんとなくわかった気になっているけれど、人に説明しようとすると言葉に詰まる——そういう経験をした方もいると思います。
この記事は、そういった問いに向き合うための記事です。
ひとつ、最初にお断りしておくことがあります。筆者は地政学の専門家ではありません。もともと地政学に興味を持ったのは、セキュリティの仕事に就く以前のことで、きっかけはゲームでした。
スウェーデンのゲームスタジオParadox Interactiveが開発した『Hearts of Iron IV』(通称HoI4)というタイトルをご存じでしょうか。第二次世界大戦を舞台にした大戦略ゲームで、プレイヤーは特定の国家を選んで軍事・外交・工業を一手に担いながら戦争を戦い抜くというものです。ある日、イギリスでプレイしていたときのことです。本国ヨーロッパの戦線を維持しながら、インド、アフリカ、中東、東南アジアと広大な植民地を同時に守らなければならない状況に追い込まれ、「なぜイギリスはこんなに守るべき場所が多いのか」と頭を抱えました。地図を眺めながら試行錯誤するうちに、「これは単なるゲームの話ではなく、当時のイギリスが実際に直面していた地政学的な課題そのものではないか」という疑問が芽生えたのです。

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それが地政学の書籍を手に取るきっかけになりました。
その後セキュリティの仕事に携わるようになってから、独学で積み上げてきた地政学の知識が実務と直結していると気づき、この記事を書こうと思い立ちました。
ですから本連載は、学術的な地政学の教科書ではありません。「セキュリティアナリストが地政学を実務に活かすために何を知っておくべきか」という視点で書いています。専門家の方から見れば荒削りな部分もあるかと思いますが、誤りや解釈のずれがあればぜひご指摘ください。
第1回の今回は、「地政学」そのものについて自分なりに整理してみます。セキュリティ業界で使われる「地政学的リスク」という言葉が、本来の地政学の概念とどうつながっているのかを確認するところから始めます。次回以降では、国家支援型攻撃者(APT)、サプライチェーンセキュリティ、データの越境問題など、より実務に近い話に進んでいく予定です。同じように「なんとなく気になっていた」という方の参考になれば幸いです。
1. そもそも「地政学」って何か
地政学(Geopolitics) とは、地理的な条件——国の位置、地形、資源、周辺国との距離関係など——が、国家の政治・軍事・外交戦略にどう影響するかを分析する学問です。
「地政学(Geopolitik)」という名称を初めて使ったのは、スウェーデンの政治学者ルドルフ・チェーレン(Rudolf Kjellén, 1864–1922)とされています([出典: JapanKnowledge, 百科事典マイペディア「地政学」])。ただし、その思想の基礎を作ったのはドイツの地理学者フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel, 1844–1904)で、彼は「国家は生存のために空間を必要とする」という「生存圏(Lebensraum)」の概念を提唱しました。
もっとシンプルに言えば、「地図を読むことで、国際政治の動きを読む」学問です。
「なぜロシアはウクライナに侵攻したのか」「なぜ中国は南シナ海に人工島を建設しているのか」「なぜアメリカは世界中に海軍基地を置いているのか」——こうした問いに地理的な観点から答えようとするのが地政学のアプローチです。
2. 古典地政学の三巨人
地政学の理論体系は、19世紀末から20世紀中葉にかけて主に3人の思想家によって作られました。100年以上前の理論ですが、現代の安全保障・外交の文脈でも引用され続けています。この3人を押さえておくと、現代の国際情勢がずいぶんすっきり見えてきます。
マハン:「海を制する者が世界を制する」
アルフレッド・T・マハン(Alfred Thayer Mahan, 1840–1914)は、アメリカの海軍士官・歴史家です。1890年に発表した著書『海上権力史論』の中で「シーパワー(Sea Power)」の概念を提唱しました。
シーパワーとは、海洋を支配・活用する能力のことです。海軍力だけでなく、通商や海運も含む広い概念です。マハンは「海洋を制した国が繁栄し、覇権を握る」と主張し、アメリカが海洋国家として太平洋に積極進出すべきだと訴えました([出典: 笹川平和財団, 「ユーラシアの地政学的環境と日本の安全保障」, 2017])。
マハンの理論は今も生きています。アメリカが第7艦隊を横須賀に置き、インド太平洋の海上交通路(SLOC)の安全を維持しようとするのは、このシーパワー思想の現代的な表れだと言えます。
マッキンダー:「ハートランドを制する者が世界を制する」
ハルフォード・マッキンダー(Halford Mackinder, 1861–1947)は、イギリスの地理学者・政治家です。地政学の世界では「現代地政学の開祖」と呼ばれています。
1919年の著書『デモクラシーの理想と現実』の中で、マッキンダーはこんな有名な命題を示しました。
「東欧を支配するものはハートランドを制し、ハートランドを支配するものは世界島を制し、世界島を支配するものは世界を制する」
— H.J. マッキンダー([出典: マッキンダー著, 曽村保信訳『マッキンダーの地政学』, 原書房, 2008])
「ハートランド」とは、ユーラシア大陸の中央部です。当時の海軍技術では到達が難しい内陸地帯であり、マッキンダーはこの地域を「世界支配の中枢」と位置づけました。一方の「世界島」とは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を合わせた概念です。
マッキンダーの関心は、ドイツやロシアといった大陸国家(ランドパワー)がこの内陸部を掌握することへの警戒にありました。イギリスのような海洋国家が連帯して、その拡張を食い止めるべきだと主張したのです。
【考察】 マッキンダーが1919年に書いた「東欧の緩衝地帯」という概念は、100年以上経った2022年のウクライナ侵攻と照らし合わせると、不思議なほど現代的な響きを持っています。フィンランドやスウェーデンが侵攻後にNATOへ加盟申請したことも、地政学者の多くが同じ文脈で論じました。もちろん、これは地政学フレームによる「後付け解釈」の側面もあり、過度な適用には注意が必要ですが、それでも示唆深い一致です。
スパイクマン:「リムランドを制する者がユーラシアを制する」
ニコラス・スパイクマン(Nicholas Spykman, 1893–1943)は、オランダ系アメリカ人の政治学者です。マッキンダーの理論を引き継ぎつつ、「重要なのはハートランドよりもその外周部である」と論じました。
スパイクマンは、ハートランドを取り囲む沿岸地域を「リムランド(Rimland)」と名付けました。西欧・中東・南アジア・東アジアが含まれるこの地帯は、人口も産業も集中しており、ここを押さえた国が世界のパワーバランスを左右すると主張しました([出典: 笹川平和財団, 前掲, 2017])。
スパイクマンの理論は、冷戦期のアメリカが採用した「封じ込め政策」——ソ連をリムランドで包囲するNATO・日米同盟などの形成——の理論的背景として機能しました([出典: 一橋大学 原澤大地「現代における地政学理論の考察」, 2015])。
3. なぜ今、地政学が再び注目されているのか
転機は2010年代に訪れました。
2014年のロシアによるクリミア半島の一方的な併合、2017年以降の米中貿易戦争の激化、そして2022年のロシアによるウクライナ全面侵攻——これらの出来事は、「経済的な相互依存が深まれば戦争は起きない」という楽観的な国際秩序観を根本から揺るがしました。
JBICが海外展開する日本企業を対象に実施した調査(2022年)では、回答企業の約85%が「地政学的リスクは重要」と答えています([出典: JBIC国際協力銀行, 「地政学は『リアリズム』、地経学は『その経済的手段』」, 2023])。5年前に同じ質問をしたら、ここまでの数字にはならなかったはずです。
「地理は関係ない、ビジネスはグローバルだ」という時代から、「どの国の企業か・製品か、どの国を経由するデータか」を問う時代へ——その変化を感じている方は、セキュリティの現場でも多いのではないでしょうか。
4. 「地政学的リスク」という言葉の意味
ここで改めて「地政学的リスク」という言葉を整理します。
じつはこの言葉、学術的に確立した定義があるわけではありません。実務では概ね次のような意味で使われています。
「戦争や外交的緊張、テロといったショックが、国境を越えた貿易や投資を混乱させ、資産価格に打撃を与え、経済活動を圧迫して金融の安定を脅かす可能性」
— [出典: IMF(国際通貨基金), 「地政学的リスクの高まり どのように資産価格の重石となるのか」, 2025年4月]
少し噛み砕くと、「ある国や地域の政治・軍事情勢の変化が、遠く離れた企業や組織のビジネス・安全保障にも波及してくるリスク」と言い換えられます。
たとえばこんなケースです。
ロシアがウクライナに侵攻(2022年)
欧州のエネルギー危機・穀物サプライチェーンの寸断
米中貿易戦争の激化
半導体・通信機器のサプライチェーン見直し
ロシア系ハクティビストの活発化
西側諸国の官公庁・インフラへのDDoS攻撃増加
カスペルスキー排除(2022〜2024年)
セキュリティソフト調達方針の見直し
最後の行、「カスペルスキー排除」こそが、この記事のスタート地点です。
5. カスペルスキー問題を地政学で読む
少しだけ先取りして、カスペルスキー問題を地政学の文脈で整理してみましょう。詳細はまた改めて論じようと思いますが、初回の締めくくりとして事実関係を確認しておきます。
カスペルスキー(Kaspersky Lab)は、1997年にモスクワで創業したロシアのサイバーセキュリティ企業です。アンチウイルス分野での技術力は世界的に評価が高く、世界約4億人の利用者を持っていました([出典: CNN Japan, 「ロシア企業カスペルスキーが米事業終了へ」, 2024年7月])。
ところが、2022年2月にロシアがウクライナへ侵攻すると状況が一変します。
2022年3月:米連邦通信委員会(FCC)がカスペルスキーを「国家安全保障上の脅威」と見なす企業リストに追加。ロシア企業が同リストに入ったのはこれが初めてでした([出典: CNN Japan, 前掲])。
2022年3月:ドイツ連邦情報セキュリティ庁(BSI)が使用変更を推奨。
2022年4月:NTTグループがカスペルスキー製品の利用中止を決定([出典: NHKニュース報道, 2022年4月])。
2024年7月:米商務省がカスペルスキー製品の米国内での販売・供給を禁止。同社は米国事業を段階的に終了すると発表([出典: CNN Japan, 前掲])。
注目すべきは、これらの措置を正当化する具体的な技術的証拠が公表されていない点です。カスペルスキー社自身も「製品の技術的評価ではなく、地政学的情勢に基づく対応だ」と声明で述べています([出典: CNN Japan, 前掲])。
これがまさに「地政学的リスク」の典型例です。製品の品質や機能ではなく、その製品がどの国の企業によって作られているか、その国と自国の政治的関係はどうか——そういった地政学的な判断が、調達・採用の意思決定を左右するようになっています。
【考察】 カスペルスキーの排除が「証拠のない政治的判断」であるという批判は一定の説得力を持ちます。一方で、セキュリティソフトはシステムの深部に常時アクセスできる性質上、万一の場合のリスクが他のソフトウェアより深刻であるという見方もあります。「疑わしきは使わない」という予防原則に基づく判断なのか、それとも地政学的な政策判断の道具に使われているのか——判断をした政治家に問いてみないとわかりません。
6. 「地経学」という新しい概念も押さえておく
最後に、地政学と並んで近年よく聞かれる「地経学(Geoeconomics)」という言葉も紹介しておきます。
地経学とは、「地政学的な目的のために、経済的な手段を活用すること」と定義されます([出典: JBIC, 前掲, 2023])。制裁・輸出規制・特定企業製品の排除——こうした手段はすべて地経学的なアプローチです。
カスペルスキーの排除も、Huawei・ZTEの締め出しも、「ロシアや中国の地政学的な影響力を抑制する」という目的のために「経済・調達規制」という手段を使った地経学的措置、と筆者は理解しています。
情報セキュリティの現場でこれらの言葉が出てきたとき、「地政学的リスク=国際情勢の変化が組織に影響するリスク」「地経学的措置=そのリスクへの政策的対応」というざっくりしたイメージを持っておくだけでも、議論の文脈がかなり見えやすくなります。
まとめ
今回の内容を簡単にまとめます。
地政学は「地理的条件が国家の政治・戦略に与える影響を分析する学問」です。マハン(シーパワー)、マッキンダー(ハートランド)、スパイクマン(リムランド)の三理論がその基礎になっています。
冷戦後のグローバル化で一時は「古い学問」扱いされていましたが、2010年代以降の国際情勢の変化で改めて注目されるようになりました。
地政学的リスクという言葉に明確な定義はなく、「地域の政治・軍事的緊張が経済や安全保障に波及するリスク」というくらいの理解で実務では使われています。
カスペルスキー問題は、製品の技術的な評価よりも「どの国の製品か」という地政学的判断が調達を左右した典型的な事例です。
地経学は地政学的な目的のために経済・規制手段を使うことを指し、セキュリティ関連の政策ニュースを読み解くときに役立つ概念です。
次回 では、「サイバー空間」という新たな地政学的戦場の誕生について取り上げようと思います。陸・海・空・宇宙に続く「第五の戦場」において、国家がサイバー能力を持つとはどういうことなのか——そこから、国家支援型攻撃者(APT)の話へとつなげていきます。
参考文献
[笹川平和財団] 「ユーラシアの地政学的環境と日本の安全保障」, https://www.spf.org/oceans/analysis_ja02/b170307.html (2017年)
[JBIC 国際協力銀行] 「地政学は『リアリズム』、地経学は『その経済的手段』」, https://www.jbic.go.jp/ja/information/today/today_202301/jtd_202301_sp1.html (2023年)
[IMF(国際通貨基金)] 「地政学的リスクの高まり どのように資産価格の重石となるのか」, https://www.imf.org/ja/blogs/articles/2025/04/14/how-rising-geopolitical-risks-weigh-on-asset-prices (2025年4月)
[PwC Japan] 「2023年主要地域における地政学リスク動向」, https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/column/geopolitical-risk-column/vol1.html (2023年)
[CNN Japan] 「ロシア企業カスペルスキーが米事業終了へ、製品販売禁止で」, https://www.cnn.co.jp/tech/35221676.html (2024年7月)
[一橋大学 原澤大地] 「現代における地政学理論の考察 — 中東・東欧の事例検証」, 田中拓道ゼミナール, 2015年
[マッキンダー著, 曽村保信訳] 『マッキンダーの地政学 — デモクラシーの理想と現実』, 原書房, 2008年
[スパイクマン著, 渡邉公太訳] 『スパイクマン地政学 — 世界政治と米国の戦略』, 芙蓉書房出版, 2017年
用語集
地政学(Geopolitics) 地理的条件が国家の政治・戦略・外交に与える影響を分析する学問。スウェーデンのチェーレンが1916年に命名。
シーパワー(Sea Power) 海洋を支配・活用する能力の総体。海軍力だけでなく通商・海運も含む。マハンが提唱。
ランドパワー(Land Power) 大陸の地上支配力を軸とする国家戦略。中国・ロシアが典型例として挙げられる。
ハートランド(Heartland) マッキンダーが提唱したユーラシア大陸中央部の概念。海洋国家の攻撃が届きにくい内陸の中枢地域。
リムランド(Rimland) スパイクマンが提唱したハートランドを囲む沿岸・半島地域。西欧・中東・南アジア・東アジアが含まれる。
地政学的リスク(Geopolitical Risk) ある地域の政治・軍事緊張が、地理的連鎖を通じて経済・安全保障に不確実性をもたらすリスク。明確な定義はなく文脈によって幅がある。
地経学(Geoeconomics) 地政学的目的のために経済的手段(制裁・輸出規制・調達規制など)を活用すること。
封じ込め政策(Containment Policy) 冷戦期に米国が採用したソ連の勢力拡大を抑止する戦略。NATOや日米同盟の形成に繋がった。スパイクマンのリムランド理論を理論的背景の一つとする。
SLOC(Sea Lines of Communication) 海上交通路。軍事物資・エネルギー・貿易物資を輸送する海上ルートのこと。シーパワー国家が確保を重視する。
APT(Advanced Persistent Threat) 持続的標的型攻撃。国家や大規模組織の支援を受け、特定の標的に対して長期・継続的に実施されるサイバー攻撃、またはその攻撃を行うグループ。第3回で詳しく扱う。
ハクティビスト(Hacktivist) 政治的・社会的な主張を目的にサイバー攻撃を行う個人・集団。Hack(ハッキング)とActivist(活動家)を合わせた造語。
FCC(Federal Communications Commission) 米連邦通信委員会。米国の通信関連規制を所管する独立行政機関。
BSI(Bundesamt für Sicherheit in der Informationstechnik) ドイツ連邦情報セキュリティ庁。ドイツの国家サイバーセキュリティ機関
