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キリスト教国のアメリカは...

アメリカは、キリスト教国であるにもかかわらず、日本のキリスト教史に
おいて尊い地である長崎に原子爆弾を落とした。

この客観的事実が問題視されないのはなぜだろうか。

日本におけるカトリックの歴史は、苦難に満ちたものであり、巨視的に
見れば、日本国内の権力者による弾圧(近世から近代初頭まで)を経て、1945年8月9日にキリスト教国であるアメリカから聖地・長崎に原子爆弾
を落とされる
という悲劇的な運命を歩んだ。


1549年の宣教師スペイン人イエズス会士フランシスコ・ザ ビエル訪日
から、カトリック教徒は急速に増 加し、1580年までに200の教会が
つくられる。
そして1593年までに30万、1612年には60万の日本人が洗礼を受けた。
この勢いを恐れた幕府により、1614年にキリスト教は禁止され、厳しい
迫害を受ける
こととなる。
当時、キリスト教徒は総人口の 3.5%あったが、そのうち4万人以上が虐殺
され、 教会は取り壊され、宣教師は国外へ追放され た。
以後16年間の迫害で、日本のカトリック教会は壊滅し、1900人が殉教
他は隠れキ リシタンとして地下に潜伏せざるを得なくなっ た。

     マーティン・スコセッシ版『沈黙―サイレンスー』

公開当時は観ることのなかった『沈黙―サイレンスー』(2016)を、動画視聴
サイトでだいぶ遅れて観ることができた。
重厚なテーマに比して、映像のデジタル感があまり釣り合っていないのが
気になってしまい、巨匠の作品にしてはもっと丁寧な処理ができなかった
かと感じたが、後で、低予算映画だったと知った。
だが、それはいちばん大切なことではない。

自分は、マーティン・スコセッシ版のラストシーンに、キリスト教の正の
側面
を見た。
これは、遠藤周作が原著の最後で書いたシーンを、スコセッシ流に解釈したものと考えられた。

コロナ禍の頃読んだ『フィルム・スタディーズ: 社会的実践としての映画』
に、日本版の『沈黙』(1971)との比較が論じられていたことが、ずっと頭に
残っていた。
これも、あまり議論されてこなかったのが不思議だが、ラストシーンに
おけるキリスト教信仰の解釈は正反対というほど異なっている。


篠田正浩版『沈黙』


1971年に制作された『沈黙』には、原作者である遠藤周作が脚本で参加しており、比類なき映像美の篠田正浩、フォトジェニックな画を撮る宮川一夫、
現代音楽の前衛・武満徹と一大芸術作品であることが謳われている。
「自然の中の卑小な人間」を表現するロングショットの多用、ここぞという
時に流れる劇的な音楽、俳優の演劇っぽい台詞回しも、スコセッシ版とは
異なる。
だが、これもいちばん大切なこととは思われなかった。

遠藤周作『沈黙』は、だいぶ前に読んだので細部までおぼえていないが、
ラストシーンには解釈の幅がある。
原作者が関わった日本映画『沈黙』は、人間を欲望に抗えない卑小な存在
として描いており、旧いジェンダー観もあいまって結末は暗い。
ラストシーンは、宣教師のロドリゴがまさに「転ぶ」場面で終わる。

神の存在を信じ、酷い拷問を受けて処刑されていく人々に対し、天から救い
の手が差し伸べられないことへの問い。

「主よ、あなたはなぜ黙ったままなのですか?」

それに対し『沈黙―サイレンスー』では、転んだロドリゴが、処刑された
下級武士、岡本三右衛門の名を与えられその妻をあてがわれた果てに、
江戸の切支丹屋敷で亡くなる時のシーンに、重要なメッセージが込められ
ている。
仏教式の葬儀には、彼の日本人妻が参列しており、つつがなく進んだ式の
最後に彼の遺体は木桶の中に納められる。
その手の中には、妻によってひそかに握らされた小さな十字架があった。

日本人の妻は、元々キリスト教徒であったはずもない。
だが彼女自身、不本意な再婚を強いられた中にあっても、禁教下でロドリゴと魂の交流をおこない、最後にはそのように思い切った行動に出たとも考えられた。
キリスト教を通じ、世俗的な「夫婦」から対等な「人間」同士の関係へと
移行したのだともいえる。

この結末は救いだった。
そして、このような在り方は、キリスト教における「普遍性」(まさに
“カトリック”)に連なっている。
血やジェンダー、立場を超えてつながるということ。
それこそが統治者によりもっとも恐れられたことでもある。

確かに、宣教師たちにとっての布教には、他の会派との競合に勝ち、東洋に
進出するという使命があった。
だが、それだけでは、命を賭けた信仰なしには、遠い異国の宣教師と日本の名もない貧民が精神的に結びつくことはなかっただろう。

自身の話になるが、両親との問題で悩んだ時、教会へ通ったことがあった。
キリスト教系の高校に通っていたので、聖書や讃美歌にはなじんでおり、
そこでは家庭で得られない安心感があった。
言語の身体化というのか、10代の3年間キリスト教のことばを口にしていたので、いつでもそこへ帰っていける感覚がある。
ただ、洗礼は受けるに至っていない。

6月に、世話になった牧師先生のいる教会で、平和学習会があり参加した。
その際も、最後には讃美歌を歌い、祈りを捧げた。
だが、現今の社会に対する平和的直接行動という点に関しては、参加が
あまり見られなかった。
特に、そこが革新的な性格の教会ではなく「暴力」を禁止する面が強い
せいか、デモなどに参加している人は見かけない(自分が行っている
サイレントスタンディングは、黙ってプラカードを掲げて立つだけで
「高市××」などと言わないので、これで暴力的と言われるなら何もでき
ないが…)。

そこで出会う人たちは、教義に対するつよいこだわりを持っているという
より、キリスト教を道徳律のようにして、倫理観を保っている中庸の善良な市民と呼ぶのがふさわしい。

しかし、中庸であるがゆえ?   教会の中にも「自己規制」が働いていると
見なされる。
世界を破壊し続ける日本の「同盟国」、かつて日本に原子爆弾を落とし
ながら、第二次大戦後も他国に戦争をしかけ続け、現在も軍拡その他で日本を隷属させようとするアメリカに、キリスト教徒としてなぜもっと抗議の声を上げないのか? 


アメリカは、キリスト教国であるにもかかわらず、日本のキリスト教史に
おいて尊い地である長崎に原子爆弾を落とした。
その一発により、キリスト教徒だけでも8500人が死亡した。
長崎県で全体の死者数は、当時で7万3884人にも上る。

スコセッシ監督『沈黙―サイレンスー』のラストシーンに見られる「連帯」
は、キリスト教にとどまらない普遍への志向に、示唆を与えてくれる。
今日のような時だからこそ、過酷な弾圧の下にあって輝いた人間の抵抗、
尊厳を見習いたい。
血やジェンダー、立場を超えてつながるということ。
それなくして世界の「平和」は実現できない。

正統なクリスチャンではなく、無教会派のクリスチャンである自分は、その普遍へ連なりたいと願う。


今回も、ことば足らずでうまく表現できなかったが、たった一つの正解は
ないので、迷いながら行動しながら、手探りで進もう。

では、スタンディングに行ってきます!


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