人間をコンテンツ化するべきではない
創作をする人間ならば、絵や小説、作品を通して感動した人から過度な崇拝と理想化をされたことがあるのではないだろうか。
それは創作をする人間にとって救いにもなることがあるが、崇拝という行為は人をコンテンツ化することであり、遅かれ早かれ最終的には必ず人を傷つける誤った行為である。
この記事では、人間をコンテンツ化することの問題について考え、それをやめるべき理由を述べる。
人間は「生きている存在」である
誰もが一人ひとり、自分だけの人生を生きている生身の人間だ。どんなに才能があっても、どんなに影響力があっても、それはその人の一部分に過ぎない。その人にはその人なりの欠点や弱さ、苦労がある。人間を「コンテンツ」として消費するという行為は、相手の人間性を無視し、自分の理想や欲望だけでその人を見てしまうということだ。
それは相手を道具やアイテムとして扱うことに他ならない。理想を押し付けられ、思い通りにならないと批判されるのは人間にとって苦しいことであり、割り切って商売にしている人間でもない限りはいずれ追い詰められていくことになるだろう。
相手を消費することで自分も疲弊する
人間をコンテンツ化すると、その関係性は「一方的」なものになる。相手に理想を押し付けることで、「自分の期待通りであってほしい」「もっと満たしてほしい」という依存的な思考が強まってしまうが、相手は生きている人間だ。決して自分の思い通りにはならない。その結果、不満や失望を抱くようになり関係性が壊れたり、自分自身もストレスを抱えることになりがちだ。
そしてその抱えきれなくなったストレスは敵意となって崇拝していた人に向くことになる。こうなるのは崇拝も敵意も、結局は「自分のため」の感情だからだ。
「この人はすごい」「この人はダメだ」と評価を下すことは、結局は自分の内側の欲望や感情を満たすための行為だ。崇拝するのも、敵意を抱くのも、どちらも相手を一方的に「自分の枠組み」で見ているだけに過ぎない。
しかし、実際の相手は自分の枠組みには収まらない、自分とは異なる生命だ。崇拝しても、敵視しても、それは相手の本当の姿ではなく、あくまで「投影した像」でしかない。
健全な人間関係の本質は、相手をありのまま受け入れることだ。それは、相手を完璧な存在として持ち上げることでも、欠点だけを見て批判することでもない。相手を長所も短所もある普通の人間として見ることだ。
何故、人をコンテンツ化してしまうのか
これだけ不毛なことにも関わらず、何故、他者をコンテンツ化してしまうのか?
商売にしてしまう側にも問題があるのは大前提だが、他人をコンテンツ化する側にも問題がある。その背景には、自分自身に対する不満や不足感が隠れているのだろう。自分の生活や感情が充実していないからこそ、外部の誰かに依存して満たそうとしているのだ。しかし、上記で述べたように生きている人間は決して自分の思い通りにはならない。
その事実を受け入れない限り、人を理想化する人間は周囲を苦しめながら自分もまた苦しみ続けることになる。
終わりに
人間をコンテンツ化することは相手を消費するだけであり、本当の意味での信頼や絆を築くことも出来ない。また、相手がどんなに素晴らしい才能を持っていても、それを理由に一方的に消費することは相手の尊厳を傷つける。
何より、他人を理想化したり批判するばかりでは、自分自身を見つめ直すチャンスを逃してしまうだろう。
そうならないためにも、生きている人間を推すときはしっかりと相手が生きている人間だと意識した上で、適切な距離を保ちながら楽しむことをおすすめする。
SNSが台頭し、表面上の繋がりが増え、あらゆる娯楽で溢れる現代だからこそ、他者をコンテンツ化するのではなく一人の人間として尊重し、理想や期待ではなく相手の本質を理解する努力をすることが大切なのではないだろうか。
