「してあげない」ことも看護だった。看護師10年目の私が考える、患者さんの自立
看護師として働いていると、「患者さんのために」と思って、つい先回りして手を出してしまうことがあります。
転ばないように。
失敗しないように。
辛い思いをしないように。
忙しいから、こちらでやってしまおう。
もちろん、安全を守ることは看護師の大切な役割です。
でも臨床にいると、ときどきこんな疑問が浮かびます。
「安全のため」という言葉が、患者さんのできることまで奪うことを正当化する理由になっていないだろうか。
私は以前から、そんなモヤモヤを感じていました。
今回は、そのモヤモヤを看護理論と、ある患者さんとの経験から振り返ってみたいと思います。
転倒転落対策という「正義」の裏で
臨床では、転倒転落のインシデントが起きると、その対策を考えます。
ナースコールを押してもらう。
移動するときは付き添う。
ベッド周囲の環境を整える。
必要であれば、移動そのものを看護師が介助する。
もちろん、患者さんの安全を守るためには必要なことです。
ただ、ときにはその「安全」のために、患者さんが本来できることまで看護師が先回りしてやってしまう場面があります。
「転んだら困るから、こちらでやりますね」
「危ないから、動かないでください」
そうしているうちに、患者さんが自分で動く機会そのものが減ってしまう。
もちろん、すべての介助を否定したいわけではありません。
転倒リスクが高い患者さんに、無理に自立を促せばいいわけでもありません。
大切なのは、
「この人には、どこまでできる力があるのか」
を見極めることなのだと思います。
そのことを考えているうちに、学生時代に学んだ看護理論を思い出しました。
看護理論は「してあげない」ことを否定していない
看護学生時代、誰もが一度は学ぶであろう看護理論。
改めて振り返ってみると、そこには「何でも看護師が代わりにやることが看護なのではない」という考え方が、それぞれの形で表れています。
ヘンダーソン
ヘンダーソンの基本的欲求論では、 看護師の役割は、
患者が可能な限り早く自立を回復するのを助けること
患者が自分でできることは、たとえ時間がかかっても代わりに行わない
という原則が明確にあります。
過剰な世話は、むしろ「患者の自立を妨げる有害な行為」とすら位置づけられています。
オレム
オレムのセルフケア不足理論では、看護介入には
「全代償」「一部代償」「支持・教育的」
の3段階があり、
患者ができる部分は患者自身にやってもらい、
看護師は指導・支援にとどまるべき
とされます。
セルフケア能力があるのに看護師が代行することは、
「セルフケア不足」を人為的に作り出す行為
とみなされます。
ロイ
ロイの適応モデルでは、
患者が自ら適応する力(コーピング機制)を発揮できるよう、刺激を調整すること
だとされます。
何でも代行してしまえば、患者が自分で適応する機会そのものを奪ってしまう。
過剰な援助は、新たな「不適応な依存行動」を生み出しかねません。
3つの理論はそれぞれ考え方が違います。
それでも共通しているのは、
「患者さんが持っている力を活かすことも看護である」
ということなのだと思います。
だから、「してあげない」というのは、決して放置することではありません。
患者さんの残存能力や自立の可能性をアセスメントしたうえで、
「ここはご自身でやってもらいましょう」
と判断する。
何もしないように見えて、実はそこには看護師の判断があります。
それでも、現場では「してしまう」
理論としては分かります。
でも、実際の臨床はそんなに簡単ではありません。
忙しい勤務の中で、一人ひとりの患者さんが自分でできるのをじっくり待つ時間がないこともあります。
転倒すればインシデントになります。
何か事故が起きれば、原因と対策を考えなければなりません。
「本人ができるから」と見守っていて、もし転倒したら。
そんなことを考えると、
「こちらでやってしまったほうが安全」
となるのも、無理のないことだと思います。
私自身も、そう考えていました。
そんなときに出会った患者さんが、今でも忘れられません。
「寝たきりは嫌だ」と言い続けた患者さん
コロナ禍より前、大学病院で出会った患者さんです。
皮膚がんがかなり進行した、働き盛りの若い男性でした。
全身に転移があり、全身の浮腫と激しい癌性疼痛がありました。
痛みが強いため、レスキュー対応も日常的に行っていました。
起き上がるだけでも辛い。
もともとがっしりとした体格で、さらに浮腫もある。
トランス介助をするにも、看護師二人がかりでようやく、という状態でした。
こちらからすると、
「もう少し楽に過ごしてもらえないだろうか」
という思いがありました。
排泄のために何度も移動することは、患者さんにとって大きな負担です。
そこで、尿道カテーテルを挿入するなど、いわゆる「寝たきり」に近い生活を提案しました。
もちろん、看護師側が楽をしたいという気持ちが全くなかったとは言えません。
でも、それ以上に、
「これだけ辛いのだから、少しでも楽に過ごしてほしい」
という思いがありました。
ところが、患者さんははっきりと拒否しました。
「どんなに辛くても、寝たきりは嫌だ」
「誰かに世話をされるのは耐えられない」
病状を考えれば、何の介助もせずに過ごしてもらうわけにはいきません。
それでも、患者さんとご家族と話し合いを重ねました。
そして最終的には、
排泄・保清・更衣などのケアは、看護師ではなく奥様が担う
トイレはポータブルトイレを使用する
看護師が行うのは移乗と、ズボンの上げ下げなど必要最低限の介助
ご本人ができる部分は、ご本人に行ってもらう
という形に落ち着きました。
当時はコロナ禍前だったこともあり、奥様が病院に泊まり込みで対応してくださいました。
最終的に、その患者さんは緩和ケアの専門病院へ転院されました。
正直に言うと、
あの対応をして、患者さんが本当に良かったと思ってくれていたのか。
今でも分かりません。
それでも、あの選択は間違っていなかったと思う
安全管理だけを考えれば、寝たきりにして全介助にしたほうが、リスクは低かったと思います。
看護師にとっても、そのほうが「楽」だったかもしれません。
でも、
「何でもしてあげること=患者さんのため」
ではないのだと、あの患者さんに教えてもらいました。
患者さんにとっては、
「自分でトイレに行く」
「自分で着替える」
「人の手を借りる量をできるだけ少なくする」
ということが、単なる日常生活動作ではなかったのだと思います。
そこには、
「自分のことは自分でやりたい」
という、その人自身の尊厳がありました。
私たちが「少しでも楽にしてあげたい」と思ってした提案が、その人にとっては、
「自分らしく生きることを奪われる」
ことにつながる可能性もある。
そのことを、身をもって考えさせられました。
「してあげない」は、決して簡単ではない
「してあげない看護」と言うと、なんとなく冷たい印象があります。
でも、実際は逆なのかもしれません。
全部やってしまえば、看護師側にとっては判断することが少なくて済みます。
でも、
「この人はどこまでできるのか」
「どこからは介助が必要なのか」
「どこまでなら安全に任せられるのか」
を考えるには、患者さんをよく見なければいけません。
そして、その判断を患者さん本人やご家族と共有しなければなりません。
必要であれば、リハビリスタッフや医師など、他職種とも相談する必要があります。
つまり、
「してあげない」という選択のほうが、むしろ手間がかかることもある。
それでも、その人が自分らしく過ごすために必要なら、あえて手を出さない。
それも看護なのだと思います。
安全と自立、その間で考え続ける
もちろん、「自立させることが正義」でもありません。
患者さんの状態によっては、安全を優先して介助する必要があります。
本人ができるからといって、何でも任せればいいわけでもありません。
だからこそ、看護師にはアセスメントが必要なのだと思います。
安全を守ること。
自立を支えること。
そのどちらか一方ではなく、その人にとってのちょうどいいところを探す。
それは、患者さんによって違います。
そして、同じ患者さんでも、その日の体調や病状によって変わります。
だから看護には、
「この人にはこうすればいい」
という一つの正解がないのだと思います。
「その人らしくありたい」を、奪わないために
看護理論は、現場で感じていたモヤモヤに言葉を与えてくれます。
ヘンダーソンの「自立」。
オレムの「セルフケア」。
ロイの「適応」。
それぞれの理論を改めて振り返ると、患者さん自身が持っている力を尊重することの大切さが見えてきます。
でも、理論を知っているだけでは、実際の看護にはなりません。
最後に判断するのは、目の前にいる患者さんです。
その人は何を望んでいるのか。
何を大切にしているのか。
何ならできるのか。
そして、何を「してほしくない」と思っているのか。
あの患者さんは、
「どんなに辛くても寝たきりは嫌だ」
と、自分の望みをはっきり伝えてくれました。
私はその言葉を聞いて、
「楽にしてあげること」だけが、その人のためではない
と知りました。
「してあげない」という選択は、決して怠慢でも、放置でもありません。
患者さんの力を信じて、必要なところだけを支える。
その人が最後まで「自分でありたい」と思えるように関わる。
それもまた、看護なのだと思います。
そして今でも私は、患者さんに何かをしてあげる前に、
「これは本当に、この人が望んでいることなのだろうか」
と、一度立ち止まって考えるようにしています。
