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10分で読めるスリランカの歴史

紀元前5世紀頃、インドから渡来したヴィジャヤ王子がシンハラ王朝を建国したのがスリランカの始まりとされていますが、王子の祖父はライオンだったと伝えられているので、史実というよりは、建国の神話と受け止めるのが良さそうです。

紀元前3世紀、インドのアショーカ王の息子マヒンダによって仏教が伝えられました。
アショーカ王は、古代インド初の統一帝国マウリヤ朝の第三代目の王で、南インドを除くインド亜大陸全域を支配しました。彼は長男に「偉大なインドラ(軍神)」という意味で「マヘンドラ」と名付けましたが、それが「マヒンダ」と変化しています。

シンハラ王朝の最初の首都は島の中北部のアヌラーダプラで、前5世紀頃~10世紀末まで続き、巨大なストゥーパや貯水池が造られました。

ルワンウェリ マハー セーヤ

1017年、南インドのチョーラ朝の侵略を受けたため、アヌラーダプラよりもやや南東のポロンナルワへ遷都します。
シンハラ王朝は、仏教文化と大規模な灌漑農業で繁栄し、ガル・ヴィハーラの石像群は仏教美術の傑作と評価されています。
スリランカでは、稲作が主要な農業形態であるため、灌漑は農業の生産性を左右する重要な要素となっていました。

ガル・ヴィハーラの石像群

インドからは仏教が伝来しましたが、タミル人による侵略行為もやってきます。ポランナルワ王朝も、南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。

1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植が始まり、1215年にはポロンナルワが占領され、1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。

シンハラ人は王権の象徴である仏歯(ぶっし)をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。

16世紀初頭、島の北部はタミル人の支配地となり、その他はシンハラ人の国が複数できて、分割された状態です。

16世紀のスリランカ

キャンディ王国は、周囲を険しい山々に囲まれた天然の要塞であったため、他国からの侵入を退けて、最後のシンハラ人王朝として、1815年まで存在し続けます。

歴代の王は「仏歯」を祀る仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院)を王宮の隣に建立し、王権の正当性の象徴としました。キャンディには今も仏歯寺があります。

最初にスリランカを訪れた西洋人は、1505年のポルトガル人で、沿岸部を支配下に置きました。主にシンハラ人のコッテ王国を支配し、その後タミル人のジャフナ王国も統治しました。

次に1602年にオランダ人がやって来ます。オランダ人は、ポルトガルが支配する西岸を避けて東海岸から上陸してキャンディ王国と接触します。
キャンディ王国は、オランダの力を借りてポルトガルに対抗しようと考えて協力して戦い、1658年、ポルトガルを追い出すことに成功します。

しかしオランダは、ポルトガルから奪取した要塞をキャンディ王国に引き渡すという約束を破り、ポルトガルに代わって支配者となろうとしたため、オランダとキャンディ王国は衝突を繰り返します。
オランダは沿岸部を制圧し、スリランカ産の上質なシナモンを独占的に貿易して大きな利益を挙げました。

フランス革命後の1795年、フランス革命軍は勢いをかってオランダに侵攻します。
対仏大同盟というフランス封じ込め策を打ち破ろうという意図と、自由・平等という革命理念を「輸出」しようという思想に基づくものだったと解されています。

海外権益を巡ってオランダと戦っていた英国は、この機に乗じて、1796年にはスリランカ内のオランダ拠点を全て陥落させ、1815年のウィーン会議で、スリランカは正式にイギリスへ割譲されます。
イギリスにとって最も重要な植民地インドを守るためには、インドの隣のスリランカを支配しておくことは重要でした。

キャンディ王国も1817年にイギリスに併合され、スリランカ全土はイギリス支配地となって「セイロン」と呼ばれます。

「セイロン(Ceylon)」の名称は、サンスクリット語で「ライオンの島」を意味する「シンハ・ディーパ」に由来し、アラブ商人が「セレンディープ」、ポルトガル人が「セイラーン」と呼び、イギリス統治時代に「セイロン」として定着しました。

スリランカはイギリスの「直轄植民地(クラウン・コロニー)」となり、主に紅茶、コーヒー、ゴムのプランテーション農業が展開され、インドから多くのタミル人労働者が移民として導入されました。

1890年には、イギリスで食品販売の小売ネットワークを作り上げていた実業家がセイロンにやって来て、次々と農園を買い取って広げ、紅茶の栽培経営に取り組んで大成功します。彼の名は、トーマス・リプトンです。

第二次大戦後、英領インドが1947年8月にインドとパキスタンに分かれて独立するのに次いで、スリランカもイギリス連邦内の自治領「セイロン」として、1948年2月に独立しました。

1951年9月のサンフランシスコ講和会議において、セイロン代表として会議に出席していたジャヤワルダナ大蔵大臣(後の大統領)が、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、日本への戦時賠償請求を放棄する演説を行ったことは有名です。

セイロンは1972年5月に新憲法を制定し、イギリス連邦内の自治領(立憲君主制)から完全独立して「スリランカ共和国」へと移行しました。スリランカは、シンハラ語で「光り輝く島」です。

スリランカには、元々古くから北部中心に住み着いていたタミル人(スリランカ・タミール)と、イギリス支配時に紅茶栽培等に従事するためにインドから移り住んだタミル人(インド・タミル)がいました。全人口に対するタミル人割合は15~18%程度と言われています。

植民地時代は、現地の少数民族を重用して分断を図るというイギリス得意の方法によって、タミル人が優遇されていましたが、独立後は多数派のシンハラ人中心の社会となり、少数派タミル人は教育や雇用で差別を受けていると反発して、83年から内戦となります。

タミル人は、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」を組織し、タミル人国家の独立を主張して、島の北東部を中心に頑強に抵抗を続けましたが、2009年、時の大統領マヒンダ・ラジャパクサの時にLTTEトップを殺害して、政府軍が内戦に勝利します。
マヒンダは内戦を終了させた英雄として多数派のシンハラ人から熱狂的に歓迎されて、2015年まで大統領を続けます。

2019年からは弟のゴタバヤ・ラジャパクサが大統領になり、兄のマヒンダが首相と、兄弟で政治を独占します。
憲法を改正して大統領権限を強化し、内閣には親戚4人を入閣させるなど好き放題をやって、中国の「一帯一路」政策に急接近します。

多額の借り入れをしてインフラ整備を進めた結果は「債務の罠」。債務返済のために外貨準備は激減し、生活必需品の輸入にも支障をきたします。
2022年、ウクライナ戦争によって原油価格が高騰すると、燃料不足のために長時間の計画停電が続くなどの生活苦から大規模な反政府デモが頻発し、とうとう2022年4月に国家デフォルト宣言がなされ、ラジャパクサ政権は崩壊しました。

発覚した政府債務は、スリランカの年間GDPを超えており、最大の債権者は中国で、二番目が日本でした。

日本は公平な債券債務整理がなされるように、積極的に関与します。
神田財務官(当時)を中心に、日本・インド・フランスが共同議長を務める債権国会合を組織し、2023年11月に基本合意を策定。
返済開始を2028年と後送りした他、返済期間の延長や金利緩和を軸とした債務再編案が合意されました。

スリランカの輸出はアパレルが中心で概ね5割、紅茶関連を含めて全体の7割に達します。
ゴム製品やココナッツ製品の輸出も堅調ですが、石油や機械、自動車は輸入に依存しており、貿易収支は基本的に赤字傾向です。
近年は、出稼ぎによる仕送りやコロナ後に回復傾向にある観光収入によって、経常収支は改善傾向にあります。

2024年9月、スリランカの第10代大統領に、既存の二大政党以外の「人民の力(NPP)」代表のアヌラ・クマーラ・ディサナヤケ氏(55歳)が当選しました。
2022年の経済危機後に顕在化した政権の汚職に対する国民の反感や、生活再建への期待を背景に、初の左派系大統領となっています。

続いて11月に行われた総選挙でも、「人民の力」が225議席中159議席を獲得して圧勝しました。

従来の選挙では、親インドか親中国かが争点化することが多かったのですが、西欧や東南アジアを含めた、バランスの取れた経済運営が期待されています。

スリランカは、北海道の約80%の大きさですが、世界遺産は文化遺産6件、自然遺産2件の計8件もあって世界遺産密度は高く、観光業の発展の如何は、今後の債務返済の大きな鍵となりそうです。

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