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現代の人が抱える生きづらさの正体


最近、“生きづらさ”についての記事をいくつか読みました。

また、自分自身も過去記事で、生きづらさについて触れてきました。

まず、

生きづらさと一口に言っても、語る人の背景によって意味合いは違ってくるだろうし、

同じ人種、国籍、性別、年代であっても、完全に共有し合えるわけではないということを前提としてた上で、

私が思う、現代に生きる人が抱える生きづらさについて、書いていきたいと思います。


知らぬ間に入りこんでいる他者の存在


私は、鏡を見るのがあまり好きではありません。

鏡の前に立つと、気まずさやちょっとした恐怖を感じます。

けれど、自分の顔が嫌いとか、そういうわけじゃないんです。

なぜだろうか。

そしてふと、気づきました。

私は鏡を見ると必ず、誰かと自分を比較していたのです。


肌が荒れている。

クマがひどい。

顔が大きい。

老けたな。


鏡には自分しか映っていないのに、なぜか私は頭の中にいる誰かと自分を比較して、

落ち込んだような気分になってしまっていたのです。

それはなぜかというと、テレビやネットで見る“キレイな人”と自分を、比較してしまっていたからでした。

けれど、いったいこの“他者”は、いつから私の頭に入り込んでいたのだろうか。


消費社会の中で異様に近くなった他者


よく、芸能人のスキャンダルがテレビやネットをにぎわせたりしています。

本来は、他人のプライベートは自分の生活には関係ないはずなのに、なんであんなに過熱するんだろう。


芸能人は、消費を促す広告媒体の役割を持ちます。

テレビをつけると、芸能人がにっこり微笑みながら商品を紹介しています。

そんな光景が、生まれたときから当たり前にあります。

その中で私たちは、そんな芸能人を自分達の中に自然と取り込んでしまっています。

見ている側としては、ただ彼らの“美”や“若さ”や“性”を消費しているように感じられますが、

いつのまにか、彼らを消費することで、“美しさ”や“こうあるべき”という基準を、とりこんでしまっているのです。


だから、本来は全く他人である彼らとの距離感が、異様に近い状態なのです。

本来いなくていい距離に、広告媒体としての他者がいるのです。

そしてそれを、私たちはおかしいとも思わないのです。

その異様な距離の近さに、気がつかないのです。

海外ではテレビCMに芸能人を起用しないというのも、

日本独特の芸能人との距離感の近さを物語っている気がします。


他者の存在を小さいころから押し付けられる日本人


思えば私たち日本人は、子どものころから他者の存在を押し付けられる環境にいると言えます。

校則などは、そのいい例です。

自分はこうありたい。

自分はこうしたい。

そう思っても、かならずそれをジャッジしてくる他者が存在しているのです。

そして、主体性を育む勉強よりも、決まった正解にいかに効率よくたどりつくかの勉強しか教え込まれません。

そうして、主体性のない他人軸の人間ができあがってしまいます。

私たちは小さいころから、自分以外のだれかや何かを優先するように、徹底的に教え込まれてしまうのです。


どうでもいい人は異様に近く身近な困った人が異様に遠い社会


私たちは、モノを消費する存在としては、これ以上ないくらい優遇され、尊重されています。

“お客様は神様”な文化がある日本は、なおさらその傾向があります。

ある程度のお金さえあれば、どんな人であろうと一人前の人間として認識され、重宝されるのです。

けれど、生きづらさを抱えた人間の存在はどうでしょうか。

現代を生きる私たちが社会から必要とされる役割は、“モノを消費する存在”としてだけです。

もちろん実際はそうではないのですが、普通に暮らしていると、そういった部分しか見えてきません。

テレビやネットのみならず、道端でも目に付くのは広告ばかり。

逆に言えば、私たちは消費さえしていれば、どんなことをしていても構わないという風潮が、世の中にある気さえしてしまいます。

そんな中で、生きづらさを抱えた人の存在は、どうしても軽視されがちです。

なぜなら、彼らは消費をしないから。

私たちが生きる社会では、消費でのつながりだけが加速していき、異様に近い距離まで他者を取り込む一方で、

モノを消費する人格だけが尊重され、生きづらさを抱える存在としては置き去りにされ、無視されている。

それはつまり、

どうでもいい他者は異様なほど近いのに、すぐ近くにいる悩みを抱えた人の存在は、とてつもなく遠いというおかしな状況に私たちは置かれている。

ということが言えるのではないでしょうか。


私たちがなぜ生きづらさを抱えるのか。

生きづらさを抱えている人は、いつの時代にもどこの国にもいます。

ただ、生きづらさがどうしてこうも私たちにつきまとうのか。

平和な時代に生きているはずなのに、私たちはどうして幸せを感じられないのか。

まるで、体中が鉛を飲み込んだように重いのです。

生まれてからずっと水の中にいるような息苦しさを覚えるのです。

少なくとも昔に比べて、物質的には恵まれているというのに。

しかし、別の言い方をすると、

物質的に恵まれモノが行き届いた消費社会だからこそ、生きづらさを抱えてしまいやすくなるともいえます。

なぜなら、消費社会だけが発達しすぎて、生きづらさを抱えた人が社会的に認められにくい背景があるからです。

そして、“社会不適合者”とレッテルをはられ、

そんな生きづらさを、個人的な悩みとして引き受け、個人として抱えていくことを、強制されているのです。

実際は強制されていないとしても、強制されている気分にさせられるのです。

少なくとも私は、そう感じています。

そこに、現代の私たちが抱える生きづらさの根源があるのではないでしょうか。


それでいて、社会の中でそんな生きづらさを表明することが、よしとされていないような文化があります。

メンタルの問題を抱えることに対して、世の中に偏見がある気がするのです。

なぜそう思うかというと、何より私自身が、メンタルの問題を抱えているという現実になかなか向き合えなかった過去があります。

自分は生きづらさを抱えていると、人に言いにくい空気が世の中にある気がするのです。

例えば、死にたいと思ってはいけない。

死にたい気持ちを持ってはいけない。

だから余計に、生きづらさに拍車がかかってしまう。

けれど本来は、

“モテたい”
“お金持ちになりたい”

と同じくらいの感覚で、

“死にたい”

という気持ちは、尊重されるべきだと思っています。

私は自死遺族なので、自殺を肯定しているわけではありません。

ただ自死遺族としての経験から、

死にたい気持ちを無理に抑えてしまうことが、

かえってその人を苦しめ、結果として死に至らしめてしまうのではないかと思ったのです。

生きづらさは、生きづらさとして自分の中に存在・・することを

社会的にも個人的にも認められないと、それはかえって“凶器”になってしまうのです。


生きづらさにどう向き合えばいいのか


ここまで見てくると、日本は何も考えずにただモノを消費する人間を育てるだけの社会に思えてきます。

そして、そんな社会で生きづらさを抱えても、その存在を無視されてしまう。

生きづらさを抱えていると、まわりに伝えづらい。

そもそも、自分ですらその生きづらさと向き合うことが難しい。

それが、私たちが抱える生きづらさの正体なのではないか。


では、いったいこの生きづらさを、どうしていけばいいのか。

どう生きづらさと向き合っていけばいいのか。




2021年に放送されたドラマ『ドラゴン桜』で、あるセリフに多くの共感がよせられました。

それは、“搾取されたくなければ勉強しろ”というものです。

勉強をすることが、唯一搾取される側から脱出する方法だ、と主人公は言っていました。


この“勉強すること”を、ただ単語や公式を暗記することとはとらえずに、

世の中を知る、という意味だとすると、

生きづらさを解消するヒントになると思うのです。


自分の悩みは、個人的なものに見えて、実は他の人も持ち得る普遍的なものであると知ること。

自分の抱える生きづらさは、自分だけのものではないと知ること。

それが、生きづらさを解消する一つの方法になると思います。

世の中を知ること。
自分を知ること。
自分は何がしたいのか
本当は何を望むのか
考えること。


単純なようでいて、結構難しい作業です。

なぜなら、小さいころから私たちは、自分の頭で考えるということをしてこなかったから。

そして気がついたら、ただ自分のお金や時間を自分以外のだれかや何かに消費することしかしなくなっていたから。


けれど、この作業をすることによって、

実は自分だけが悩んでいたと思っていたことが、そうではないことに気がつきます。

自分を孤独にしてきた悩みや生きづらさが、実は人とつながるツールだったと、気づくのです。

社会と自分をいったん切り離して、自分を知ること。自分は何がしたいのか、考えること。

これが、とてつもなく遠くにいる悩みを抱えた身近な人の存在を救うことになるのではないか。

そう思っています。

現代の私たちが抱える生きづらさを解消するには、

何も、医者や弁護士や政治家になる必要はないのです。

一人一人が、知ること。考えること。

そして、自分にできることを少しずつしていくこと。

何より、自分が困っている自分に気づいて、手を差し伸べてあげること。


生きづらさは、今すぐに解消されなくても、

その存在を認められるだけでも、感じ方は違ってきます。

本当は社会が、一人一人の生きづらさにもっと寛容で温かいまなざしを向けられるようになればいいなと思いますが、

現状としては、それはなかなか難しいように思います。

せめて一人一人が、遠くの困っている人の存在に気づけたら。

何より、困っている自分自身をいたわることができたら。

きっともっと、生きやすい社会になるのではないでしょうか。





この記事を読むことによって、あなたの生きづらさが少しでも解消されれば幸いです。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。






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