おまえがいたから 第一話「壁」#ぬりかべ
拓が最後に外に出たのは、三年と四ヶ月前だった。
正確な日付は覚えていない。覚えていないことが、最初は気になったが、今はもう気にしなくなった。カーテンを開ければ今日が何日かわかるが、カーテンを開ける必要がなかった。スマホの画面を見れば日付が出るが、スマホを見るのは夜中だけだった。昼間は眠っていることが多かった。夜中に起きて、暗い部屋でスマホを見て、また眠った。
それが拓の一日だった。
部屋は六畳だった。
一人暮らしではなかった。母親と同居していた。二LDKのアパートで、拓が子どもの頃から住んでいた部屋だった。六畳の中には、シングルベッドと、机と、本棚と、押し入れがあった。それだけだった。大学に通っていた頃のものがいくつか残っていたが、押し入れの奥に入れたままだった。
ドアは、内側から鍵がかかっていた。
拓が外に出なくなった理由を、誰かに聞かれたことはなかった。
母親は何も言わなかった。聞かなかった。最初の頃は「ご飯できたよ」と声をかけてきたが、拓がドアを開けないことが続いてから、ドアの前に食事を置いて行くようになった。気配がなくなってからドアを開けて、中に入れて、食べた。食べない日もあった。食べない日は皿を廊下に出しておいた。朝になると片付けられていた。
それだけのやりとりが、三年続いた。
友人から連絡が来たのは最初の半年だけだった。返信しないでいると、来なくなった。それが正しかったのかどうかは、今もわからない。ただ、返信する言葉が見つからなかった。元気?と聞かれて、元気ではないと答えるのは違った気がした。元気だと嘘をつくのも違った。だから何も言わなかった。
大学は中退した。
正確には、欠席が続いて除籍になった。書類が届いた。母親が受け取って、ドアの前に置いた。拓は開いて読んで、また閉じて、押し入れに入れた。
それだけだった。
世界は、この六畳で完結していた。
異変に気づいたのは、三年目の秋だった。
夜中の三時頃だった。拓はベッドに寝転がって、スマホを見ていた。何を見ていたかは覚えていない。誰かの投稿か、動画か、そういうものだった。
ふと、壁を見た。
北側の壁だった。押し入れの横の、何もない壁だった。
何かが、いた。
壁と一体化していた。壁と同じ色で、壁と同じ表面で、ほとんど区別がつかなかった。でも確かに、何かが、壁に張り付くようにいた。
大きかった。人間ほどの幅があった。
拓はスマホを胸の上に伏せて、目を凝らした。
何もなかった。
いや、あった。
見ようとすると見えなくなる。でも視線をずらすと、輪郭がある。壁の色と少しだけ違う、ざらざらとした、暗い何かが。
拓は起き上がらなかった。
怖かったかというと、正確には怖くなかった。逃げる場所もなかった。ドアは施錠されているし、外には出たくなかった。だから拓はただ、寝転がったまま、その壁の何かを見た。
見ているうちに、眠くなった。
そのまま眠った。
次の朝、目が覚めて壁を見ると、何もなかった。
翌日の夜も、また見えた。
今度はもう少しはっきりしていた。
壁と同化しているが、輪郭がある。下の方が少し丸みを帯びていた。表面がざらざらしていた。壁紙の質感とは違う、もっと荒い、石か土に近い質感だった。
拓は起き上がって、机の前に座った。
壁から三メートルほどの距離だった。
「何ですか」
声に出して言った。
三年以上、自分の声をほとんど出していなかった。だから声がかすれた。自分の声だとわかりにくいほど、ひびが入った声だった。
返事はなかった。
壁は動かなかった。ただ、そこにあった。
「いるんですか」
また聞いた。
返事はなかった。
でも拓は、何かが「いる」ことを確信していた。理由は言えなかった。ただ、そう感じた。
三年間、この六畳の中で過ごしてきた。壁の染みも、天井の模様も、床のどこが軋むかも、全部知っていた。知りすぎていた。だからわかった。今夜の北側の壁は、昨日までとは違う。
「害はないですか」
三つ目の質問だった。
その瞬間、壁がほんの少しだけ動いた気がした。
揺れた、というのではない。息をした、という感じに近かった。人間が息を吸って、また吐いたときの、胸の動きのような。
拓はしばらくそれを見た。
それから、ベッドに戻った。
眠る前に一度だけ振り返ると、その何かはまだそこにいた。
拓は目を閉じた。
その翌日から、それは毎晩いた。
昼間は見えなかった。昼間は拓も眠っていることが多かったので、昼間にいないのか、昼間は気づかないだけなのかはわからなかった。でも夜になると、北側の壁にいた。いつも同じ場所に、同じような輪郭で。
拓は少しずつ、それを「見慣れた」。
おかしなことだとは思っていた。幻覚かもしれなかった。睡眠のリズムが崩れて、頭がおかしくなっているのかもしれなかった。でも確かめる方法がなかった。病院に行けばわかるかもしれないが、病院に行くためには外に出なければならなかった。外には出られなかった。
だから拓は、それをそのまま受け入れた。
三年間、この部屋で起きることは全部受け入れてきた。受け入れる以外に何もできなかった。天井の染みが増えても、床の一か所が特に冷たくなっても、受け入れた。それと同じだった。
ある夜、拓は机の前に座って、北側の壁を見ながら言った。
「ぬりかべって知ってますか」
返事はなかった。
「妖怪の。壁みたいなやつ」
返事はなかった。
「あなた、ぬりかべじゃないですか」
壁が、またあの「息をするような」動きをした。
肯定なのか否定なのかわからなかった。でも拓はなんとなく、「そうだ」という意味に受け取った。
「そうか」
拓は言った。
それだけだった。
でもその夜は、いつもより少し早く眠れた気がした。
母親が「先生に診てもらってほしい」と言ってきたのは、その頃だった。
ドア越しに、静かな声で言った。怒っているわけではなかった。責めているわけでもなかった。ただ、疲れているような声だった。
「診てほしいというのは、精神科か何かですか」
拓はドア越しに答えた。
「そう。でも嫌なら無理にとは言わない。ただ、一度だけ考えてほしい」
「考えます」
そう答えて、それっきりになった。
考えた。本当に考えた。
病院に行けるかどうか。外に出られるかどうか。それを想像すると、胸のあたりが締め付けられた。玄関のドアを開けて、外の空気を吸うことが、どうしても想像できなかった。
想像しようとすると、頭が痛くなった。
拓はその夜、北側の壁に向かって言った。
「外、怖いですか」
返事はなかった。
「あなたは出たりしますか、外に」
返事はなかった。
「そうか、壁だもんな。出ないよな」
拓は膝を抱えて、壁を見た。
壁はそこにあった。暗い部屋の中で、ただそこにあった。何もしなかった。何も言わなかった。ただ、あった。
それが、なぜか、少し、楽だった。
何もしない何かが、そこにいる。
何も求めない何かが、そこにいる。
元気かと聞かない。どうするつもりだと聞かない。いつ出てくるんだと聞かない。ただ、いる。
拓には、それが必要だったのかもしれないと、あとになって思った。
でもそのときは、必要だとも思っていなかった。
ただ、眠る前に北側の壁を見ることが、習慣になっていった。
そこにいることを確認して、目を閉じた。
それだけのことが、三年ぶりに、眠りを少し楽にした。
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第二話「声」へ続く
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