おまえがいたから 第四話「ドア」――最終話―― #ぬりかべ
四月になった。
拓はカーテンを毎朝開けるようになっていた。
それだけだった。外に出たわけではなかった。ドアも開けていなかった。でも朝に光を入れることが、少しずつ習慣になっていた。光が入ると、部屋の中が違って見えた。三年間、暗い中にいたせいで気づかなかったものが見えた。壁の汚れ、床のほこり、本棚の乱れ。
ある日、拓は床を拭いた。
突然そうしたくなった。雑巾を探したが見当たらなかったので、古いTシャツを使った。床を拭いて、本棚を整えた。埃を払った。
三時間ほどかかった。
終わって床に座ると、部屋が少し違う場所のようだった。
同じ六畳だった。同じ壁だった。でも少し、居場所になった気がした。今まで閉じ込められていた場所ではなく、自分がいる場所に。
ぬりかべはそれを見ていた。
北側の壁に、いつものようにあった。
「きれいになりました」
音がした。
「三年以上、掃除してなかった。汚かったですね」
音がした。
「気にしてなかった。気にする余裕がなかったのかもしれない」
壁が動いた。
「あなた、ここにいる間は埃だらけで申し訳なかった」
音がした。短い、いつもの音だった。気にしていない、という感じに拓は受け取った。
四月の中頃に、幸恵がドア越しに言った。
「拓、起きてる?」
「起きてます」
「少し、話せる?」
拓は少し間を置いた。
「……はい」
幸恵の声が続いた。
「無理にとは言わない。ただ、聞いてほしいことがあって」
「聞きます」
「先月、パートの時間を減らした。もう少し家にいる時間を増やそうと思って」
拓は何も言えなかった。
「拓がどうしたいかは、まだ急がなくていい。でも、私はここにいるから。それだけ伝えたかった」
廊下が静かになった。
足音が遠ざかった。
拓はドアに手を当てた。冷たかった。
三年以上、内側からしか触れていない面だった。
ぬりかべに言った。
「母親が、時間を減らしたって」
音がした。
「俺のために、そうしたんだと思う。でも俺のために、というのが、また申し訳なくなる」
音がした。
「ずっとそうなんです。誰かが俺のために何かをしてくれると、申し訳なくなる。俺はそれに値しないような気がして」
ぬりかべは静かだった。
「あなたも、俺のためにここにいてくれてる気がする。それも申し訳ない」
壁が動いた。
それから、今まで聞いたことのない音が出た。
低くて、長くて、少し震えていた。
拓はその音を聞きながら、胸の奥に届くものを感じた。
言葉ではなかった。でも何かだった。
申し訳ないと思うな、ということではなかった。
申し訳なくても、受け取っていい、ということだった気がした。
受け取ることと、値すること、は別のことだ、と。
正しいかどうかわからなかった。でも拓には、そう聞こえた。
五月の連休が終わった頃、拓は手紙の返事を書いた。
あの封書を送ってきた友人への返事だった。
便箋を持っていなかったので、コピー用紙に書いた。ボールペンで、ゆっくり書いた。
最初の一文を書くまでに、一時間かかった。
何度も書き直した。
最終的に書いたのは、短い文章だった。
元気ではないかもしれないが、生きている。返事が遅くなった。手紙を読んだ。待っていてくれていたことに、ありがとうと言いたかった。
それだけだった。
封筒に入れて、宛名を書いた。
切手を持っていなかった。
拓は少し考えた。
切手を買うためには、外に出るか、母親に頼むか、どちらかだった。
母親に頼む方が簡単だった。でも、外に出てみようと思った。
自分でも驚いた。
思っただけだった。実際に出られるかどうかは、わからなかった。でも「思った」ということは、三ヶ月前にはなかったことだった。
ぬりかべに言った。
「明日、外に出てみようと思う」
音がした。
「出られるかどうかわからない。途中でダメになるかもしれない。コンビニまで行けたら、切手を買う。それだけ」
音がした。
「できなかったら、また考える」
音がした。短い、いつもの音だった。
「あなたは、外に出ることを止めたりしない?」
ぬりかべは静かだった。
「ぬりかべって、道を塞ぐ妖怪なんだよな。でも、あなたは俺の道を塞いだことはなかった」
壁が動いた。
「もしかして、外の道じゃなくて、ここにいる俺の道にいてくれたのかな。この部屋の中で、一緒にいてくれたのかな」
音がした。
拓はしばらく壁を見た。
「ありがとう」
音がした。今まで一番長い音だった。
次の朝、拓は起きた。
カーテンを開けた。空が曇っていた。
着替えた。
玄関に向かった。
三年以上、開けていないドアだった。
内側から鍵がかかっていた。
拓はその鍵に手をかけた。
冷たかった。
手が震えた。
胸が締め付けられた。息が浅くなった。
でも拓は手を離さなかった。
しばらくそのままでいた。
部屋に戻ろうと思えば戻れた。
戻らなかった。
鍵を回した。
音がした。小さい音だった。
ドアノブを持った。
回した。
ドアが開いた。
廊下の空気が入ってきた。
冷たくなかった。少し温かかった。五月の朝の空気だった。
拓はしばらく、開いたドアの前に立っていた。
廊下を見た。
台所から音がした。
幸恵がいた。
振り向いた幸恵の顔が、少しの間、止まった。
拓は言った。
「おはようございます」
幸恵は何も言わなかった。
目が赤くなった。
でも泣かなかった。
「おはよう」
それだけ言って、また台所の方を向いた。
拓は廊下に一歩出た。
その一歩が、重かった。でも出た。
台所まで歩いた。
幸恵の横に立った。
幸恵は鍋をかき混ぜていた。みそ汁だった。
「何か、手伝えることありますか」
幸恵は少し間を置いた。
「お椀、出してくれる。棚の上の段」
「はい」
拓は棚を開けて、お椀を出した。
ふたり分。
テーブルに並べた。
それだけのことだった。でも、三年ぶりのことだった。
その日の夜、部屋に戻って、北側の壁を見た。
ぬりかべが、いなかった。
何もなかった。
いつも壁と一体化していたものが、何もなかった。壁は壁だけだった。ただの白い壁紙だった。
拓はしばらく立っていた。
驚かなかった。
来るかもしれないと、なんとなく思っていた。こういうことが起きるかもしれないと。
「行ったんですね」
誰もいない壁に、拓は言った。
「今日、外に出た。ドアを開けた。廊下を歩いた。母親と話した。お椀を出した。それだけだけど」
返事はなかった。
「出られたのは、あなたがいたからかもしれない。話せたのは、あなたに話してたからかもしれない」
壁は静かだった。
「ありがとうと言いたいけど、もういない」
拓は床に座って、壁を見た。
「いなくなったのは、俺がドアを開けたから? それともたまたま今日だったから?」
答えはなかった。
「わかんないけど、タイミングが一緒なのは、何かあるんだと思う」
拓は膝を抱えた。
「寂しいです。正直に言うと、寂しい。三ヶ月以上いてくれたから」
部屋は静かだった。
「でも、いなくなったことが、ちゃんと先に進めってことだと思う。あなたが壁じゃなくなった分、外の壁を自分で越えないといけない」
拓はそのまま少し泣いた。
声は出なかった。ただ、目から出た。
泣きながら、笑えた気がした。
笑えるかどうかわからなかったが、少し笑えた気がした。
次の日も、外に出た。
コンビニまで歩いた。
五分くらいの距離だった。三年前は何でもなかった距離だった。でも今日は、信号を渡るときに少し震えた。コンビニに入ったとき、店員の顔を見られなかった。
それでも、切手を買った。
帰り道、空を見た。
青かった。雲がゆっくり動いていた。
三年前から変わらない空だった。
でも拓には、今日初めて見る空のように見えた。
帰って、手紙を出した。
ポストに入れるとき、手が少し震えた。
でも入れた。
それだけのことだった。
でも拓には、それで十分だった。
部屋に帰って、北側の壁を見た。
やっぱり、何もなかった。
でも拓は、その壁に向かって言った。
「今日も外に出た」
返事はなかった。
でも、言いたかった。
「明日も、たぶん出る」
壁は静かだった。
拓はベッドに横になって、天井を見た。
外から音がした。車の音、鳥の声、どこかの子どもの声。
三年間、ずっとそこにあった音だった。
今日は、聞こえた。
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おまえがいたから 完
お読みいただきありがとうございました。
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