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じいちゃん、そんな顔してたのね。

祖父の話をしようと思う。

ちょっと家族が苦手だなって人はいないだろうか。
祖父は幼少期の私にとってちょっと苦手な人だった。

家が近かったので、祖母の家によく入り浸り、祖母と2人で話をするのが好きだった私にとって、祖父はどこか距離のある人だった。
ぶっちゃけ、祖母と話しているときに横入りしてくる人という印象が強かったのかもしれない。
洋間によくいて、韓ドラを観て、糖尿病で、インスリンの注射を打って、パチンコも打って、煙草を吸って、パチカス兼ヤニカスで、ふらっといなくなってはふらっと戻ってくるような根無し草みたいな人だった。
祖母の苦手なラーメンを好んで食べて、川に釣りに行ったり、山へ山菜を採りに行ったり病気やパチンコと不健康そうなのに、でも活発な人だった。

祖父が私と顔を合わせる時、どんな顔をしていたか覚えていない。
たぶん、私が何を話して良いか分からなかったのだと思う。まともに祖父の顔を見ることが出来なかった。
だから、たぶん覚えていない。
でも、行動は覚えている。
例えば、糖尿病でインスリン注射を打っていたけれど、甘いものが好きだった祖父は決まって、かりんとうやフォーチュンクッキーや和三盆を私に差し出して、コミュニケーションをはかろうとした。
幼い私は甘いものが好きだったので、祖父に勧められるまま食べては、美味しいと話しかけたような気がする。気の遠くなるくらい昔のことのように思うくらい、祖父との思い出は私の心に残っていない。

別に、祖父のことがどうでも良いとかではなくて、あまり家にいない人だったし、家族で集まるときにわざわざ取り立てて話すような人でも無かったから、祖父と話すというイベントは、年に一度の誕生日ケーキみたいな物だったのだと思う。
食べたことを覚えているけれどケーキのディテールまでは覚えていないように、祖父と会話したことは覚えていても内容までは覚えていない。
それは今になるとちょっと悲しいし、もったいないことだなあと思う。

そんな祖父のイメージは、病気がちな人というのが強い。
私がよく覚えているのは、祖父が病気になってからの姿なので、そういうイメージなだけかも知れない。
確か、晩年の大きな病気は白血病的な血液のがんだったと思う。
それもよく覚えてないけれど、祖父は私が生れる前から糖尿病でインスリンの注射が欠かせなかったので、私と関わるときの祖父は何かしらの病気の爆弾を抱えていた。
気がついたときには、祖父は病気で、入退院と手術と療養をしていた。
私が小さすぎて幼すぎたから覚えていないのか、それとも知らされていなかったのか。いつから祖父が病気だったのかを私は知らなくて、ただいつの間にか祖父はそういう状態だった。

そうしていつの間にか死んでしまった。
祖父が亡くなる日の付近のことだけはなぜか、よく覚えている。
祖父が無くなる一週間前、病床の祖父を父と母と妹と私で尋ねた。
祖父はその頃、病気のせいでろくに食べることができなくて、でも、病院のベッドの上で元気そうにわたしたちを出迎えたと思う。
父と少し話した後、ベッドの横の棚から財布を取り出すように言って、取り出された財布の中からお金を出して、私と妹にアイスを買ってやれと父に言っていた。自分は何にも食べられないのに、強い人だなと思ったのを覚えている。でも、本当は強く見せようとしただけかもしれないと今になって思う。
それは、祖父の精一杯の見栄だったのかもしれない。

その日、私がアイスを食べたかは覚えていない。
ただ、祖父のために折り紙で鶴を1羽折っていって渡したこととまた1週間後に来るねと伝えたことは覚えている。
そうして1週間過ぎて、お見舞いの日の前日の夜に私は、自分の寿命はどうなっても良いから、もう少し祖父を生かしてくれと天に向かって祈った。
祖父との思い出も祖父の表情も覚えていないけれど、そんな冷たい孫が必死に祈った。

そうしたら、祖父はその日の夜に亡くなった。

次の日の朝、祖父が亡くなったと父から知らされたときに、あんなお願いしなきゃよかったなあと思った。涙が止まらなかった。1人でベットの上にうずくまった。
孫の私はろくに表情は思い出せないのに、愛情だけ注いで逝ってしまった。
何だかんだ、あまり喋らずともお菓子をくれたり、不器用に孫を愛してくれていた祖父は、孫の私の寿命が縮むようなことは望まないような気がした。だから、私の願いに反して亡くなったのだと思った。
お昼前になって、祖父の体は家に帰ってきた。
1週間前に動いていたとは思えないカリカリの体で祖父は静かに横になっていた。
親戚のおばさんやおじさんがやってきて、祖父の体に触れた。
まだ温かいねなんて言っていた。けれども私は触れることができなかった。
父に、1週間前に祖父に渡した鶴はどうなったのかと聞いたら、汚れて捨てられてしまったのかもしれないと言われたので、新しく10羽弱折り鶴を用意して、祖父が棺に収められるときに一緒に入れることにした。
祖父に渡した鶴は首を作っていなかったけれど、10羽弱の鶴は全て首を曲げた。棺を見送るときに、人はおじぎをするから、鶴もおじぎをさせるべきだと思ったから。
祖母は、自分が食べないし祖父が好きだったからと袋のラーメンを入れていた。好きな食べ物を食べられなかった祖父が、天国でたくさん食べられますようにと。
私は10羽弱あった鶴を親戚の人に配って、1個だけ自分の手で入れた。
顔の近くだった。
羽をピンと広げて開いて入れた。祖父のことを空まで案内できるように。

祖父の遺影用の写真は無かった。
祖父は写真が嫌いだったらしく、亡くなる15年以上前の、面影が残っていないくらい若いときの写真が引っ張り出されてきて、これしか無いねなんて家族で話していた。
私は知らない祖父の写真をぼんやり眺めていたけれど、そのうちにふつふつと納得できない気持ちが湧き上がってきた。
その時ふと、幼稚園の時に敬老の日用にとった写真があったことを思いだして、これだと思った。写真の私は4歳くらいで、それすら10年くらい前のものではあったけれど、私がよく知っている祖父の姿はまさにそれだったから。
だから、祖母の家から歩いて5分くらいの家に戻ってアルバムから祖父と写った写真を2枚引っ張り出してきて、急いで戻った。
これが良いと言った。
その写真は見事に祖父の遺影に採用されて、元の写真を見た親戚の人には、「初孫にデレデレじゃないの」と、にこにこされた。
私は良い仕事をしたと満足だった。

祖父の葬式の日。葬儀が始まる前にどこかのおじさんが、「あんたのおじいちゃんは、好きなことして良い人生だったんじゃないかね」と言っていて、それをぼーっと聞いていた。
参列した人を迎えるときも、私はぼーとしていて、葬式の間もぼーっとしていたのか、記憶があまりない。父が喪主として挨拶して、祖母も何か言って、お坊さんも何かお話をしてくれて、でもその何もかもを覚えていない。
ただ、私の知っている祖父が写真で着ていた白いシャツでは無くって、技術で合成されたスーツに身を包んで遺影の中に存在しているのをぼんやりと眺めていた。
葬式の時に唯一覚えているのは、通夜の後に食べる食事会で、何も食べられなかった祖父のことが思い出されて、彼はまともに食べることすらできなかったのに、良い人生もへったくれもあるかと心の中でどこかのおじさんに怒って、ぐちゃぐちゃな感情が水になって両目から溢れたことだった。
それだけは今も忘れないし、その時になって私ははっきりと祖父の死を認識できた気がしている。

家に戻ると、遺影に採用されなかった写真が机の上に置いてあった。カメラから外れていた視線は、横に写る幼少期の私の方を向いていた。
祖母にくっつく私に向けた目は優しくて、唇はほんの少し弧を描いていた。
祖父はいつも、私の事を優しい顔して見ていたのだなと、その時初めて知った。

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