長い旅の終わりに:盛夏の仕事納め
梅田MeRISE(関西大学梅田キャンパス)をあとにして、堂山を通過すると、そこは曽根崎だ。東京っ子の著者を連れて、「大阪の夏は鱧やね」「今度は道頓堀まで散歩しよう」「いいね、(草履でなく)スニーカーでね」なんて言い合いながら、生まれた街を歩くのは気分がよかった。風が吹いていた。
この日のことを作家はこう書いている。
打ち上げは本場大阪、超高級串カツの店に連れてかれた。牛肉、豚肉、たこ、はまぐり、かき、子持ち昆布、しょうが……。信じられんぐらいうまかった。串カツというより寿司を食ってる感覚だったが、これは新連載「あれも食ったしこれも飲んだし」で後日書くかもしれない。編集Lilyがおごってくれた。鼠色に白い帯、きりっとした和服のLilyと、みすぼらしいTシャツにジーンズのわたし。「話の内容からして、売れない作家とそのパトロンやろな」と、店の人は思っていただろう。『三行で撃つ』、『百冊で耕す』、『宇宙一ちゃらい仕事論』と、長い旅の、終わりの味がした。
笑う。売れない作家とパトロンって。でも、意識してなのか天然なのか、近藤康太郎さんはいつもながら私の本質をよく見抜いているとも思った。
子どもの頃から、本か映画に関わる仕事がしたかった。20代、映画のPR会社か、版元か。幸運にも二つの選択が我が手中にあった。悩んだ末、作品に対する己の裁量が大きそうなほうを選んだ。
そう、好きで就いた編集の仕事だ。けれども天職かと問われれば、「全っ然!」と即答する。この仕事を続ければ続けるほど、己の特性がまるで編集者に向いていないと思い知る。視野が狭いのだ。視線がまったくマス(読者)のほうを向こうとしない、というよりはなからまともに見る気がない。
いつも、自分にとって美しいものやおもしろことこそが大切で、そういう表現を生み出す人が好きという気持ちばかりが強い。強烈に惹きつけられる人のほうばかりを見ている。社会を変えたいだとか、人の役に立ちたいだとか思ったことはなく、だから編集者には向いていなくて、なれるものならパトロンに、豊かな趣味者に、私はなりたい。
ビールの次の白ワインのボトルが半分も空く頃、これからの話になった。じつは私、8月末でいまの会社を辞めるんである。『三行で撃つ』と『百冊で耕す』のプロモーションは梅田MeRISEで最後と言ってきたのは、そういうわけだ。近藤さんはずいぶん前から知っていて、何かと気にかけてくれていた。
「これからのことは、まあ楽しみ。人生であと何冊書けるかなって考えへん? 私は編集者やし、書き手よりはたくさん本をつくれる。それでも、あと何冊かな。ほんまにいい本、私がつくりたい本だけを今後はつくりたい。仕事は、60歳くらいでもうええかなあ。で、これ言うと笑われそうやけど、隠居したら、仏像を彫って暮らしたい」
近藤さんは茶化さなかった。むしろ真面目なトーンで言った。
「向いてるよ、そういうの。仏師は名前が残らないからいいって言ったのは志賀直哉だったか」
へええ。そうなんか。さすがや、直哉、かっこいい(踏める)。たしかに志賀は無名性を良しとした人だ。仏師の去私については考えもしなかった。しかし編集者としての私は、自分が慈しみ、精いっぱい手をかけ愛したものが、消えずに残ってくれたらいい。そして私自身は、塵芥も残さず、きれいさっぱり消えてなくなってしまいたい。
酔眼で店の壁を見上げた。東南アジアの仮面がいくつも飾られている。明治生まれの創業者が個人で蒐集した神様たちの御顔である。こうして誰かが美を見出し、買付け、慈しんでこなければ、この世界からとうに消失していたかもしれない尊くて、奇妙な顔。そう、私の仕事はたぶん、こういうことなんだろう。私が見つけなければ、私が慈しまなければ、消えてしまったかもしれない、良い顔を残すこと。できれば百年先、あるいはもっと先まで。
***
表は、大阪の夏の夜だった。暑苦しくて、でも大好きな大阪の夏だ。
「ちょっとお参りしていこ。曽根崎心中の舞台、お初天神。行ったことある?」
アーケードの下の喧騒をほんの数メートル歩いて脇へ入ると、びっくりしたような闇が、唐突に在る。大阪の商店街のこうした緩急の風景は、笑いと一緒だな、などと思う。
並んで拝礼した。近藤さんはこういうとこ、ちゃんとしてるんである。柏手を打つ。カラッと景気のいい音がした。
「これからもご健筆で、もっと原稿が巧くなりますように」
隣にいる作家の将来に願掛けした。『三行で撃つ』が単行本で出てから5年半、原稿を待っていた月日も数えると7年の付き合いになる。長かった旅路が、これでやっと終わったような、いやもう終わってしまったというような、複雑な感慨があった。完全に仕事を終えたいま、残ったものはなんだろう。友情、とか? 咄嗟に浮かんだ言葉ではあったけれど、まるでしっくりこない。それほどポジティブなものではないような気もするし、この程度では十全に言い尽くせないとも思う。言葉が見つからない。
言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は、存在しない。言葉にならないのではない。はなから感じていないし、考えてさえいないのだ。
いやいやいや。言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は、やっぱりあるんとちゃうかな? いまさらやけども、知らんけど。

文・編集Lily
【お知らせ】今週末の7月18日(土)は、事実上、現職での仕事納めとなるイベントがあります。どうぞいらしてください。
トークショー&サイン本お渡し会
上阪徹 × 佐藤友美(さとゆみ):「また頼まれる人になる」ための働き術
◎日時: 2026年7月18日(土)15:00〜17:00
◎会場: 芳林堂書店高田馬場店8階
◎出演:上阪徹 × 佐藤友美(さとゆみ)
◎お申し込み・詳細情報は >> こちら
