能力至上主義の問題と、それでも能力を伸ばす理由
能力至上主義は、あらゆるところにはびこっている
能力というものは伸ばすに越したことはない。
何かをやるなら上手にできたほうがいい。
下手くそでいい、今のままでいい、ということになったら、何も面白くない。
技術は“やる気”と“目的”から始まる
ところで、「うまい/へた」の技術だけが、ほかのものと独立してあるわけではない。
技術的な巧拙の手前に、やる気や目的、意志の問題がある。
何が目的があるからやってみる。結果的に、うまくなる。
「うまい/へた」の基準と評価の本質
技術というものには、基準がある。
基準にもとづいて、あらゆる技術は評価される。
当然のことながら、ある基準において、うまいということは善であり、下手ということは悪である。
これは、間違いのないことだ。
だから、ある技術に関して、うまい人を尊び、下手な人をさげすむ、という事態になるのは、自然といえば自然なのだ。
その技術の、固有の世界においては。
ゲームで考える“技術”と“偉さ”の違い
ところで、あなたはゲームは好きだろうか。
ゲームには明確に、うまい/へたが存在する。
うまい人は、やり込めばやりこむほど上手くなる。一方で、センスの問題もあるから、いつまでも下手な人もいる。下手でやる気がないと、いつまで経っても上達しない。
さて、ゲームがうまいからといって、人間として偉いかというと、そういうわけではない。ただ単に、ゲームがうまいだけである。
ゲームの世界において、尊敬される。ひょっとしたら、ゲームの世界大会で優勝して、お金持ちになるかもしれない。それでも、別に偉いわけではない。
ただ、ゲームというものをひたすら追求した結果、うまくなったということにすぎない。そして、それはそれだけで価値のあることだ。偉さとは関係ないのである。
能力が意味するもの、意味しないもの
あらゆる技術というのはそういうものであり、その限られた世界において巧拙や優劣が競われるものである。
それは、他の分野にはそのまま適用できない。別の価値にそのまま変換することはできない。(もっとも、ある事柄に優れている場合、そこで培った努力の方法を、別の場面で適用できることがある。これは、メタ認知の問題だ。メタ認知については、また取り上げてたい。)
何かの能力があるということは、それができるということでしかない。それができるということを、どこまでも突き詰めていくことでしかない。
最初の一歩をどう踏み出すか
いずれにせよ、まずはやってみるということ、そして、上手くなりたいと思って熱心に繰り返すこと、それがなければ、能力を高めることはできないだろう。
その、まずはやってみよう、と思う第一歩をどう作るかが、何より大切なのである。
