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ラカン入門(哲学入門50シリーズ)          うしP(著)

⓪はじめに

 私たちは「自分」という存在を当たり前のように知っていると思っている。しかし、フランスの精神分析家ジャック・ラカンは、その確固たるはずの自我が、実は外部のイメージを自分と取り違えた「誤認」から始まったものだと指摘する。本記事では、ラカン思想の核心である「鏡像段階」から、精神を構成する三つの領域、満たされない欲望のメカニズム、そして現代のSNS社会にまで深く突き刺さる臨床理論までを順を追って整理していく。人間がいかにして主体となり、なぜ虚無を抱え続けるのか。自律的で透明な自我という近代の幻想を根底から揺るがす、ポスト構造主義にも影響を及ぼした精神分析の土台を学びたい。

① 本の概要・内容整理

1. 自我の誕生と「鏡像段階」という誤認

 私たちが「これが自分だ」と信じている自我は、実は最初の出発点から「錯覚」に基づいている。ラカンが提唱した最も有名な概念が「鏡像段階」である。 生後6か月から18か月頃の乳児は、まだ自分の意思で自由に歩くこともできず、身体のコントロールがままならない「未熟な状態」にある。しかし、鏡に自分の姿が映ったとき、赤ちゃんは歓喜の表情を浮かべる。なぜなら、鏡の中には、グラグラした現実の身体とは異なる、手足が綺麗に揃って「完全に統一されたひとつの全体像」が映っているからである。

 乳児はこの鏡の中の完全なイメージを「これが自分だ」と受け入れ、同一化する。ここに「未熟でバラバラな現実の身体」と「鏡に映る完璧なイメージ」との決定的な落差(ギャップ)が生まれる。つまり、自己意識とは自分の内側から自然に湧き上がるものではなく、鏡という「外部のイメージ」を自分だと取り違える「誤認」からスタートするのである。 さらに、この鏡の中の像を自分だと確信するためには、単に鏡を見るだけでは足りない。後ろから母親などの他者が「ほら、あれがあなたよ」と言葉をかけ、微笑みかけてくれるような「他者のまなざし」や承認が必要となる。自分という存在は、他者というフィルターを通さなければ認識できないという、人間の根本的な外部依存性がここに表れている。

2. 精神を構成する三つの領域と「ボロメオの環」

 ラカンは、人間の精神を理解するためのモデルとして、世界を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの領域(三界)に分類した。これらは、どれか一つでも欠けると全体が崩壊してしまう「ボロメオの環」と呼ばれる位相幾何学的な図形(三つの輪が互いに絡み合った構造)で説明される。

  • 想像界(Imaginary):イメージや同一化、自己像が支配する領域である。鏡像段階で「あの鏡の像は自分だ」と思い込んだり、他者と自分を比較して「あの人は自分に似ている、あるいは違う」と一喜一憂したりする世界だ。ここは常にライバルとの競合や攻撃性、アイデンティティの揺らぎを孕む不安定な領域である。

  • 象徴界(Symbolic):言語、法律、社会秩序、ルールが支配する領域である。人間は言葉をしゃべることで社会に参加するが、その言葉のルール(文法や意味)は自分が作ったものではなく、社会があらかじめ用意したものだ。ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言ったが、私たちの思考や欲望は、この象徴界という社会のネットワークに完全に規定されている。

  • 現実界(Real):イメージ(想像界)にすることも、言葉(象徴界)で表現することもできない「不可能な領域」である。日常で言う現実世界のことではなく、むしろ人間の認知システムからこぼれ落ちる「割り切れない残余」を指す。たとえば、あまりにも悲惨で言語化不可能な「トラウマ的な体験」は、言葉にもイメージにもならず、精神の「穴」として残り、突然の不安や症状(現実界の徴候)として主体を襲う。

3. 言語への従属と、他者の欲望のメカニズム

 人間は言葉を使って「私はこうしたい」と自由な意思で望んでいるように思えるが、ラカンに言わせれば、それすらも言語体系と他者に操られた結果にすぎない。これを紐解くために、ラカンは「欲求(Need)」「要求(Demand)」「欲望(Desir)」を明確に区別した。

  • 欲求(Need):お腹が空いた、眠りたいといった、生物学的・身体的なレベルの衝動。

  • 要求(Demand):その欲求を、言葉に乗せて他者に伝える行為。たとえば赤ん坊が泣いてミルクを求めるとき、単に栄養を欲している(欲求)だけでなく、「お母さん、私を愛して、こっちを向いて」という「他者からの愛や承認の要求」へと変換されている。

  • 欲望(Desir):ここに悲劇が生まれる。母親がミルクをいくら与えても、赤ん坊の身体的欲求は満たされるが、「完璧な愛」そのものを物質で完全に保証することはできない。この「欲求と要求の間に残された、どうしても埋まらないズレや余白(欠如)」から生まれるものこそが「欲望」である。

 したがって、欲望とは最初から「満たされないこと」を前提とした欠如の連鎖である。さらに、子どもが「お母さんが喜ぶ行動をとりたい(=母親が望んでいるものを自分も望む)」と学習していくように、私たちの欲望は常に他者の動向に依存している。これがラカンの有名なテーゼ「欲望は他者の欲望である」の意味だ。 この決して手に入らない「欲望の中心にある欠如の象徴」を、ラカンは「対象a(objet petit a)」と名付けた。私たちは「あの車が手に入れば」「あの人と付き合えれば」と具体的な対象(対象a)を追いかけるが、いざ手に入っても、すぐに次のものが欲しくなる。私たちが本当に求めているのはその物体そのものではなく、その背後にある他者の承認や、失われた完全性という「幻」だからである。

4. 精神の構造(神経症・精神病・倒錯)と「父の名」

 社会のルール(象徴界)に入る際、子どもは「母親を独り占めしてはならない」という禁止に直面する。この禁止のルールをもたらす象徴的な権威や秩序の原理を、ラカンは「父の名(Nom-du-Père)」、あるいはその中心的な記号を「ファロス(Phallus)」と呼んだ。 臨床において、人間はこの「父の名(ルール)」をどのように受け入れたかによって、いくつかの精神構造に分類される。

  • 神経症(強迫神経症やヒステリー):「父の名」を内面化し、社会のルールに従っている状態である。しかし、自分の本音の欲望と社会のルールの間で激しく葛藤するため、過剰に規則に縛られたり(強迫)、不安や身体の症状(ヒステリー)として苦しむことになる。

  • 精神病(統合失調症など):そもそも「父の名」という社会の根本ルールが、精神の登録簿から完全に締め出されてしまっている状態を指す。これを「排除(Forclusion)」と呼ぶ。ルールの軸がないため、社会の言語秩序(象徴界)がうまく機能せず、言語化できない恐怖や刺激(現実界)がダイレクトに本人に侵入してくる。ラカンは、精神病の患者が見る「幻覚」や「妄想」を、単なる脳のバグではなく、「むき出しの現実界の混乱に対して、本人なりに必死で新しい世界の意味を作り直そうとしている創造的な試み(防衛)」であると捉え、その語りに深く耳を傾けた。

  • 倒錯:「父の名」という禁止ルールが存在することを知りながら、あえてそれをバイパスして、独自のルールで快楽(ジュイサンス)を得ようとする構造である。

5. 臨床技法と文化・芸術への応用

 ラカンの精神分析は、従来の心理学のように「あなたの悩みの原因はこれですよ」と外から意味を解説するものではない。無意識の言葉の連鎖に耳を傾け、患者自身と言葉を衝突させるための装置であった。 その代表例が「短縮されたセッション」である。従来の精神分析が「50分」と時間を固定していたのに対し、ラカンは患者が非常に重要な無意識の核心に触れる発言をした瞬間、たとえ開始から数分であっても「はい、今日はここまで」とセッションを打ち切った。突然遮断されることで、患者は「自分が今放った言葉の重み」について日常生活の中で深く直面せざるを得なくなる。分析のゴールは、症状の完治ではなく、自分が他者の欲望に振り回されていたことに気づき、「自らの欲望の欠如を引き受け、その責任を持って生きる」という倫理的な境地に達することにあった。

 この構造は、文学や映画の批評にも劇的な影響を与えた。 たとえばエドガー・アラン・ポーの小説『盗まれた手紙』の分析では、手紙に何が書かれているか(中身)ではなく、「手紙というシニフィアン(記号)が誰の手に渡るか」という位置関係によって、登場人物たちの欲望や権力関係がドミノ倒しのように決定していく構造を鮮やかに証明した。 また、映画研究においては、暗闇のスクリーンに映る巨大で完璧な映像に観客が没入するプロセスを「鏡像段階」の再現として説明する。フェミニズム映画批評では、映画のカメラワーク(視線)が常に「見る主体=男性」「見られる対象=女性」という社会のファロス的権威を再生産しているというイデオロギー批判(男性的視線論)へと応用された。芸術とは、言葉では表しきれない「現実界の断片(不可能なものや裂け目)」を形にし、観客を驚かせ、魅了する欲望の装置なのである。

6. 現代への応用やメッセージとして

 ラカンの「他者」の理論は、現代のインターネット社会やデジタル社会においてますます鮮明な示唆を与えている。

 SNSにおける承認欲求は、「他者の欲望」に巻き込まれる典型的な例である。人々は常に「他者のまなざし」を意識して自己を表現し、投稿や写真は「他者にどう見られるか」を前提に構築される。フォロワーの数は他者が自分をどう欲しているかの指標となり、それに依存する主体は「他者が欲するもの」を欲する「他者の欲望の奴隷」となる。主体は他者から逃れられず、他者を通じてしか自己を構築できない。

 この構造は資本主義的消費のサイクルとも連動している。消費社会において、メディアや広告は消費者に「これこそがあなたの欲望を満たすものだ」と訴えかけ、人々は経済的成功や社会的地位を「ファロスを持っている」ことの証(ファロス的権威)としてめぐり競争する。しかし、いくら商品を購入しても欲望は尽きない。欲望の本質は商品そのものではなく、その背後にある「他者の承認」や「社会的な位置づけ」だからである。主体は「対象a=欠如の残余」にすぎない欲望の対象を追い求め、資本主義的消費のサイクルを止めることができない。一方で、その権威が実体のない「象徴的記号」である空虚さを感じ取り、アイロニカルに消費してもいる。

 さらに、今日のインターネット社会は「大文字の他者の不在」を露呈している。かつて権威を担っていた国家や宗教が揺らぎ、代わりにアルゴリズムや市場が「見えない他者」として振る舞っている。このように「大文字の他者」がその権威を失い、象徴的秩序が揺らいでいる状況(父の名の失墜)は、主体を不安定にし、現実界の侵入を招く。ポストモダン社会におけるアイデンティティの流動化や陰謀論の蔓延も、ある意味では「父の名の排除」が集団的に生じている現象として解釈できる。第4章で触れた通り、ラカンにとって「妄想」とは単なる混乱ではなく、バラバラになった世界に無理やりにでも新しい秩序を与えようとする、主体なりの必死の試みなのである。陰謀論に没入する人々もまた、正解のない不安定な世界の中で、自分なりの「妄想」を構築することで、崩壊しそうな自己の輪郭を繋ぎ止めようとしているのかもしれない。

 ラカンは、精神分析の目的を「主体が自分の欲望に責任を持つこと」と定義した。人はしばしば社会的適応や他者の期待、社会が提示する規範に従うために欲望を偽装するが、欲望を無視して従属するだけでは、主体は空虚に崩れてしまう。欲望を放棄することは「生きながら死ぬ」ことであり、欲望に忠実であることが主体の倫理的課題となる。

 欲望は欠如に根ざしており、決して完全に充足することはできない。だからこそ、人は欲望を恐れるのではなく、欠如を否認せずにその欠如とともに生きる必要がある。「欲望をあきらめない」とは、その不可能性に忠実であることを意味する。他者の期待に従う偽装を暴き、欠如を受け入れてそれとともに生きることこそが、人間にとっての真の自由であり創造の源泉となる。これは現代においてもなお有効な、冷徹で強力な倫理的メッセージである。

② 論点整理

  • 論点1:自我は自発的なものではなく、外部のイメージの「誤認」によって誕生する。

    • 理由:乳児は、自分の未熟な身体と鏡に映る完全な統合像との落差を抱えたまま、外部にある像を自分自身と同一視する錯覚(誤認)を通じてしか自己意識を獲得できないため。

  • 論点2:人間の欲望は、決して満たされることのない「欠如」によって駆動されている。

    • 理由:生物的な「欲求」を言語化した「要求」を行っても、他者からの完全な愛や承認は得られず、その間に埋められないズレ(対象a)が残り続けるため。

  • 論点3:人間の無意識や欲望は、個人の内面ではなく「他者の言語秩序(象徴界)」に従属している。

    • 理由:私たちは社会が用意した言語体系のルールの中でしか思考や欲望を表現できず、「他者が何を望んでいるか」をベースにして自己の欲望を形成せざるを得ないため。

  • 論点4:精神病における妄想は、病理的な混乱ではなく、崩壊した世界を再構築しようとする主体の創造的試みである。

    • 理由:社会の根本ルールである「父の名」が排除されたことで象徴界の秩序が崩れ、直接侵入してきた現実界の混乱に対し、主体が独自の意味づけを施そうとして構築されるものであるため。

③ キーワード(重要概念)

  • 鏡像段階(le stade du miroir) 生後6〜18か月頃の乳児が、鏡に映る自分の統一されたイメージを自分自身だと認識することで「自我」を獲得する発達的・構造的モデル。身体を自由に動かせない未熟な状態でありながら、外部の完全な像を自己と同一視する「誤認」に基づいている。自己の形成には「それはあなたよ」という他者のまなざしや承認が不可欠であり、人間の自己意識が根本的に外部依存的であることを示している。

  • 大文字の他者(l’Autre) 個人の目の前にいる具体的な他者(友人や家族など=小文字の他者)とは異なり、言語、文化、社会的ルール、法律といった、個人の主体性を根底から規定する「象徴的秩序」そのもののこと。人間が自分の欲望を語る時、その言葉や意味はすでにこの大文字の他者の体系に従わざるを得ず、人間の無意識や欲望がこの社会的ネットワークの中で誕生することを示す。

  • 対象a(objet petit a) 人間の欲望を掻き立てるが、決して完全に手に入れることのできない「欲望の対象の残余」であり、「欠如」そのものの象徴。生物的欲求と言語的要求のズレから生じる。具体的には「視線」や「声」などの断片的な形で現れ、主体を魅了し続ける。たとえば、消費者が次々と新しい商品を買い求めても満足できないのは、商品そのものではなく、その背後にある手に入らない「他者の承認」という対象aを追いかけているためである。

  • 父の名(Nom-du-Père) 実父の名(Nom-du-Père)とは、実際の父親を指すのではなく、象徴界における「禁止」や「社会的規則」を体現する構造的・象徴的機能のことだ。

  • この機能を理解する鍵が「ファロス(根源的な充足のシンボル)」である。子どもは最初、母親が全き満足を得るために欲している対象(ファロス)そのものに自分がなろうとする。しかしそこに「父の名」が法として介入し、母親の独占を禁止すると同時に、「お前は母親のファロスにはなれないし、母親もファロスを持っていない(欠如している)」という事実を突きつける。

  • 主体はこの「ファロスへの固執」を諦める(去勢を受け入れる)ことで、無限の欲望の連鎖から切り離され、代わりに「言葉(記号)」を用いて自らの欠如を埋めようとし始める。こうして人間は、言語秩序と社会関係の中に正しく位置づけられる。精神病はこの「父の名」が根底から排除(非排除・根絶)され、ファロスをめぐる象徴的なゲームに参入できていない状態とされる。

④思考をひらく

1 ①鏡像段階から考える。「自己嫌悪」

 人は常に、他者の姿を通してしか自分の認識に辿りつくことができない。 私たちはその完成像に憧れ、そこに近づこうとし続ける。たとえば教師であれば、「こんな教師であるべきだ」と考えるが、なかなかそこにはいけない。
 ラカンはこの完成像への憧れを「理想自我」と呼んだが、このズレこそが、人間の欲望と苦しみの構造を生み出す。 なかなか理想へといけないことによる自己嫌悪を引き起こし、最終的には、自分の現実レベルの力と乖離した上位の視点から、自分自身を責めることになっていく。 
 そして、この自己嫌悪は、現実の自分を認識することからますます乖離し、逆に自分を奮い立たせ改善していこうという意気込みを挫けさせるのではないかと思う。
 まさにこの「完成像への憧れ、現実との乖離、そして上位の視点からの自己嫌悪」という一連の心の動きこそが、鏡像段階という現象が私たちの人生にもたらす、最もリアルな解釈である。

②鏡像段階から考える。「らしさ」とは?

 「あなたらしさ」や「自分らしさ」という言葉。私たちは日々の生活の中で、それを肯定的・積極的に、自分の生きる軸や指針にすることがある。しかし、そもそも「らしさ」とは何なのか、それはどこから来ているのかと考え出すと、よくわからない。

 この「らしさ」という問いは、一見すると、理想の自分を追い求め、高望みをした結果、思うようにいかず挫折したときに、自分の足元にある「オリジナルの自分」の価値を見つめ直し、それを生きる拠り所としようとする営みのようにも思える。だからこそ、その無力さや不完全さを引き受ける軸として、「自分らしさ」が求められるのかもしれない。

 しかし、精神分析の視点から見れば、「自分らしさ」は決して自分の内側だけから生まれるものではない。むしろ、「らしさ」という言葉には、自分が理想とする自己像や社会の中で期待される役割、さらには他者との関係の中で形づくられた自己像を、自分自身の本質であるかのように受け止めている側面が含まれているように思う。

 つまり、「自分らしさ」というもの自体もまた、鏡像段階において形成される自己像や、他者との関係性のなかで構成された自己を、自らの本来の姿として受け入れることによって成立しているのではないだろうか。

 このように考えると、「自分らしさ」という言葉をめぐる揺らぎは、精神分析の視点から見ても、きわめて妥当であり、人間の本質を突いている。私たちは、自分らしさを自分の内側にある固有の本質だと考えがちである。しかし、それは他者との関係のなかで形成された自己像を、自らの本来の姿として引き受けているにすぎない。

2 象徴段階から考える。「三人の囚人」

 以前ラカンの本を読んでいた時に、他者を参照するという意味で、次のようなエピソードに感動した覚えがある。
 3人の囚人が監獄に集められ、背中に「白」か「黒」のカードを貼られる(自分では見えない)。「自分の背中の色が分かった者から部屋を出てよろしい」と言われる。カードの内訳は白3枚、黒2枚だが、全員の背中には「白」が貼られた。
 3人は互いの背中の「白」を見つめ合い、誰も動けない時間(ためらい)を経て、「相手が動かないということは、私の背中も白に違いない」と全員が同時に気づいて部屋を出る。このパズルでラカンが言いたかったのは、「人間は、他者の出方や、他者が持っている記号の並びを見ることによってしか、自分が何者(何色のカード)であるかを決定できない」ということだ。
①最初の仮定(もし「黒・黒」なら)
 自分がもし他者の背中に「黒」と「黒
」を見ていたら、黒は2枚しかないので、その瞬間に「私は白だ!」と分かって一歩目で部屋を出られる。しかし、今誰も動かない。 → これにより、全員が「場に黒が2枚ある可能性」を消去する。
②二番目の仮定(もし「白・黒」なら)
 
仮に、囚人Aの目に、囚人Bが「白」、囚人Cが「黒」と映っていたとする。 このとき、Aはこう考える。 「もし私の背中が『黒』だとしたら、Bの目には『黒(私)』と『黒(C)』が見えているはずだ。だとしたら、Bはステップ1の論理(黒・黒の状況)ですぐに歩き出すはずだ。……しかし、Bは動かない。ということは、私の背中は黒ではなく『白』だ!」 つまり、他者の「ためらい(動かないこと)」を観察することで、「私は黒ではない(=白だ)」と推理できる時間が生まれる。
③現実の結論(全員が「白・白」を見ている)
 
しかし、実際には誰も動かない。なぜなら、全員が互いに「白」と「白」を見合っているからだ(誰も「黒」を見ていない)。 全員が同じようにステップ2の「他者のためらい」を観察し合い、「相手が動かないということは、相手の目にも私は黒ではなく、白として映っているのだ」という結論に、まったく同じタイミングで達する。だからこそ、3人は「同時に」歩き出すことになる。
④ラカンがここから言いたかったこと:他者という「象徴段階(象徴界)」 
 この完璧なロジックから、ラカンは「私たちが『私はこういう人間だ』と確信(決断)する瞬間には、必ず他者の視線やためらいという『他者の時間』が挟み込まれている」と指摘した。自分一人では絶対に自分の背中(正体)は分からない。他者がどう動くか、どう動かないかという関係性を通じて初めて、人間は「私は白だ(私はこういう存在だ)」という記号を事後的に引き受けることができる。
 
 この囚人のロジックは、「周りの人間の動きや記号(他者)を見ながら、自分の背中の記号(正体)を推測している」という点で、ラカン思想における「象徴段階(象徴界)」の仕組みをしっかり表現している。

 象徴段階とは、人間が言語や法、社会的なルール、そして「他者」というネットワークのシステム(記号の体系)を媒介にすることでしか、自己のアイデンティティを確立できない構造を指す。私たちは、鏡に映る自分を自分だと信じ込む自己完結的な段階(想像界)を超え、この他者との関係性という「象徴段階」に参入して初めて、「私は何者であるか」という記号を引き受けることができるのだ。 

3 ①現実界から考える。「詩」「芸術」「祭り」

 象徴界ですでに整理された論理的な体系を壊して新たな言語のパースペクティブに挑戦してみせる芸術も「現実界」からの挑戦だろう。
 例えば、「詩」の中において、言語の論理を超越しながらもなにかしら爽やかな、初めて言語化されたような爽やかさを感じることがある。これがいわゆる「割り切れない残余」というものであろうか。ハレとケなどと表現される日常と非日常の交差なども、これまで築かれた「象徴界」を刷新、成長させるものとなるのであろう。

②現実界から考える。クリステェヴァの「サンボリック」や「セミオティック」と同じ概念なのだろうか?

 そういえば、クリステヴァも「サンボリック」と「セミオティック」という類似した概念を提出していたのだが、同じものなのだろうかという疑問が湧いた。

 結論から言うと、基本のダイナミズム(往還による象徴界の刷新)としては同じものと捉えてよい。ガチガチの論理や社会的秩序(サンボリック/象徴界)に対して、そこから漏れ出た過剰なエネルギーや生々しいリズム(セミオティック/現実界)が下から突き上げ、言語や社会をアップデートしていく構造は共通している。

 ただし、その「割り切れない残余」のニュアンスには少しズレがある。クリステヴァの「セミオティック」が、赤ん坊が母親と一体だった頃の身体的なリズムや衝動など、詩の調べや前衛芸術といった美しく瑞々しい表現を生み出す「言葉を裏から豊かに支える生命力の源泉」を指すのに対し、ラカンの「現実界」は、言葉で切り取れず排除された「不気味な空白やゴミ」、すなわち解釈を拒絶する剥き出しの死体、言語化を拒むトラウマの記憶、ホラー映画に登場するような正体不明の異形な怪物といった、人間世界の安全なルールを根底から脅かす圧倒的な恐怖や異物を指す。

⑤総括 

どこか足りないこの世界で、自分だけの「すてきな誤認」を見つけること

 「正解のない世界」とよく言われるが、生きるための信頼できる柱が以前と比較して見えなくなり、曖昧になり、信じるものがなくなっている。その反動として「全体主義」などが台頭するというのは、歴史的に見ても「不安」や「混沌」が広がった時代の後に起こりやすいと聞く。

 現在、人々は金や地位はもちろん、いわゆる最近よく使われる言葉や概念である「ルッキズム」など、外見的な美貌や筋肉質で引き締まった美しい体、SNSによるリア充の表現や「いいね」(私にもよくわかる)を追い求めることが盛んなようである。

 ラカンの提出した概念である「対象a」と「ファロス」の関係を整理すると、ファルスはなんでも叶えられる万能の象徴であるとともに、対象aは自分の欲望の終わりなき終着点なのだろう。ファロスはルッキズム(美貌、スタイル、筋肉の美しさ)や「いいね」の数、金、地位などであり、対象aは、それらを身につけることで得られるはずの、完全に満たされた失われた楽園のような状態なのだろう。

 しかし、他者を参照してそれを自己認識している以上、それは永遠に「誤認」としてしか現れず、自分が求めている対象aとは必ずズレるはずである。

 なぜなら、人間は生まれてすぐの赤ん坊の頃、「自分とお母さんは一体だ」と感じているからだ。この時、赤ちゃんにとってお母さんは世界のすべてであり、完璧に満たされた「失われた楽園」そのものである。しかし、成長するにつれて、赤ちゃんは残酷な事実に気づく。「お母さんは、僕(私)だけを見てくれているわけじゃない。お父さんや仕事、他のもの(=ファロス)に視線を向けている」 ここで赤ちゃんは、お母さんという最初の「他者」の視線を必死に参照し始める。「お母さんは何を見ているんだろう? どうすればまた、僕をあの一体感(楽園)の中で愛してくれるんだろう?」 ここから、人間の「他者のまなざしへの依存」と「終わりなきズレ」がスタートするのだ。

 そもそも、対象aとは心にぽっかり空いた「鍵穴」(埋まらない穴・失われた楽園)であり、ファルスとはその穴にぴったりハマるはずの「万能の鍵」(究極のシンボル)なのだろう。

 私は、ルッキズム、金、地位を求めることを否定はしない。多かれ少なかれ、それらを生きていく柱として自分に希望を与えながら、幻想を抱いて生きていくのが人間の宿命だと思うからだ。私も音楽を作ったり、絵を描いたりする中で「美しさや前衛性、快感」を自分だけの「ファルス」と信じ、この切ない鍵穴を抱えながら、今を希望とともに生きている。

                          2026年7月10日 


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