教える(教育)には人間性がないといけない

教えるとか教育ってHow-to本ではテクニックだけしか書いていなくて、それをどうアレンジするのかはその人次第という話を以前のブログでしました。教育とはただ教えるだけではないというのは周知のとおりです。なぜなら、ただ勉強するだけなら一人でやった方が遥かに自由で効率的だからです。
そこで、教えることとは「教育者」がどういう教育をするかという当たり前ではありますが、深く考えると難しいことについて、今回は考えます。


教えるだけの教育

教えることというのは単なるテクニックや教師の手法のことをいいます。教えることができなければその次の段階には進めません。そのため、「教える」手法は必要なのですが、それ単体だけではちょっとまずい。旧来の学びが近い言い方でしょうか。誤解あるかもしれないけれど機械的な学び。

テストを解くことややり方を覚えることは、教えるだけ(テクニック論だけ)あればそれなりのマニュアルさえあれば誰でも教えることができる。ただそれってすごく味気ない。やりたくもないもののために時間を使うことはただの時間の消費になっている。それなら時間の浪費をした方がいい。時間の浪費になるには教える人の人間性など人対人である必要がある。

教えるだけの教育から横道に逸れて詰め込み教育や受動的な教育について考えていきます。ここで注意したいのは、詰め込み教育≠悪です。風潮として、詰め込みはよくないと言われていますが最低限知るべきだけど仕組みはわからないものについてわからないで終わらせないで覚えさせることも時には必要です。知識として「抗癌剤は癌促進剤である」ことを知っていても、医学の専門家ではないので細かいことまでは分りません。でも、まずはこういう知識を理解して後から○○という成分が悪さをしていると理由も理解をすればそれでいいんじゃないでしょうか。

おばあちゃんの知恵のようなものは本にある内容を読むだけなら教えるだけの教育ではあるのですが、おばあちゃんなど人から古来と同じよう教えられるのなら後ろにある「人間性を加味した教育」になるのかな?

人間性を加味した教育

こちらの教育なら時間の浪費をすることができる。
消費と浪費の違いについては国分さんの暇と退屈の倫理学を読んで下さい。
こういう区別だったはずです。
消費:必要を超えて観念や意味を受け取る。(限界はない)
浪費:必要を超えて  モノ を受け取る。(限界はある)
消費なら到達点がないので徹底的に搾取されます。

単に知識や技能を教わるだけなら無制限に受け取ることができるので消費になります。学習という観念を消費しているので満足や贅沢は感じません。
しかし、知識や技能+αになると学習を浪費になりそれを受け取ることに贅沢を感じ楽しみさえ覚えます。
※限界の有無といっても上限は結構高いと思うけど限界はないというのは∞と捉えればいい。

この教育だったら人間性を加味した教育、つまり教師が人としてどのようにふるまっているかの総体としての教育になります。
学級単位、教科単位、授業単位、○○単位で行ってきたものすべてに影響して、その人がどういう人間でどういう行いをしてどんな考えの持ち主で…を表したものが人間性を加味した教育となります。
人間性を加味するというと仰々しいですが、要は一人間として客観的にみてどれだけ素晴らしい人間かどうかってことです。外見の話ではありません。

人間味のある教育にするにはどうすればよいか

人間性とはどうすれば磨くことができるでしょうか。
A.元来もっているもの(遺伝説に近い考え)
B.人とのかかわりを通して学ぶ(環境説に近い考え)
C.遺伝+人とのかかわり(A,Bのミックス)

私はこれのどれにもあたらないのかなあと思います。強いて言えばCが近い考えですけど、「自覚」が必要なのではないか。
自覚とは自ら人として成長するため理解することや行動することです。
例えばニュースを毎日見ること、哲学書を30分読むこと、地域活動に参加すること、朝早く起きて規則正しい生活をすることなどです。
人が意図的/無意図的に働きかけても、結局は自分の問題なのでその人次第というしかなさそうです。

人間なんて多種多様なのだからいろんな人がいるべきで、そうした方が社会としては健全になる。
人間性を磨くことを考えたら多くの人々と触れて知って考えることをして、結局自分はどうあるべきか内省する。その意味での人とのかかわりは必要であるけれど、遺伝面の影響も全くないとも言いにくいけど、その後は遺伝や人とのかかわりなんて介せない領域になる。

人間性を重視する教育は不可能か

こういう声があります。
こういうことって家庭教育だけの話で、学校教育では難しい。普段の生活では生徒を育てることを目標としているが、学習の場面では人間性を評価することは如何なることか。人間性をA,B,Cでつけてよいのか。

なんでも評価しないといけない観念に駆られすぎなような気がします。
指導要領でそう書かれていたとしても、そこまで重大に考えたら逆に混乱してしまう。評価の範囲外で人間性を重視するだけでよさそうです。学ぶ人間としての人間性の評価なんて一人間が見られる側面は限定されているので、複雑に考えすぎないで生徒も納得できるようにすればいい。
大学だったら出席点20 のように簡潔でいい。

ただ、そうしたら生徒行動にこんな懸念されるかもしれない。
評価の単純化を行うと、どこを重点的にこなせばいいかわかるから、本来評価すべきことと生徒の能力が不釣り合いになることもあるだろう。思ってもいないことの美辞麗句を書くことでいい評価を貰うのではないか。

これは教育の悪しき点というか修正すべき点です。
生徒も評価主義に染まっていて、内申のために勉強している。学習したいから学習しているのではなく、仕方なく学習をしていて評価を上げることだけ終始頑張っている。
日本人の特性なんでしょうか。自分の人生なのに他人の眼を過剰に気にするようではつまらないと思うのですが。評価されること<学ぶ喜びの図式ならそういうことって少なくなりそう。ただ、学ぶ喜びって難しい。

学ぶ喜びの取組

よく行われることは興味をもたせることや○○的活動を増やすことですね。それも勿論よいですけど、それだけでは教えるだけの教育になる。そこに、人間の意図が含まれることが大切なこと。
人間味のある教育をすることのお話をしてきたので、それに関連付けるとその先生の持ち味や面白さがあればいいのかな?ただ、それが学びに結び付かないで先生に好かれたいから評価をあげようと思わせたらダメ。

その人と一緒に学ぶからわかる学びの喜びがあればよくて、その学級で学ぶから喜びがあって、学びが促進されるようにその人がいると暖かい雰囲気で学習が進んで純粋な学びができたら個人的にはうれしい。
表面的な人間性ではなくて、その人がいるから学ぼうと思うしついていこうと思えるような関係だったらいい。リーダーシップをとるような人でも完全に自由にさせる人でもその人がいれば学ぼうとするけど、その人におべっか使わない。ただ、その人のことを尊敬したり純粋な好きになったりは全然あることだろうし、そういう場合って評価の有無はきっと関係ない。

まとめ

教育には人間味があった方がいい。人間味は一日で身につくのではなくその人の人生?や考え方、自覚など総合的なもの。人間味のある教育は不可能ではないがやはり難しいことは否めない。それでも「その人がいるから学びに向かおう」という空気感があれば一番いい。
シュタイナー教育では小学生と中学生と高校生ではそれぞれどういう人ならついていきたいかという理想像が発達段階の違いが理由となって異なるらしいです。とはいっても、地域の問題や今の子どもの精神年齢、一人ひとりの個性など考えていくと、こういう人ならついていきたい正解は存在しない。

おまけ

農水省のバカは交代しても碌なやつ来ないだろうから静観していたけど、5月くらいから本当に馬鹿だったんだと思い、あの発言があって引いた。
で、後任がセクシー担当大臣でした。JA壊れるんじゃないかな。1回生の議員に大臣させた方がクリーンでまともな政治ができそう。
それと、今回わかったように誰かがやめた後任は事情を悪化させる可能性があることが分かります。なので、前もブログに書いたことだけど私はゲルが参院選の後も総理になった方がいいと思う。それは消極的な理由だけどゲルが辞めた後の人は政治を今より破壊する気がする。このままの現状維持が安全な気がしている。ただし、外務大臣は更迭してほしい。
一番サイアクなのが立憲。あの党首本当に嫌いだから現状維持がこの中ではベストの選択肢ではある。ただし自公で過半数行くかどうかの瀬戸際くらいの参院選の結果になっての現状維持の政権だったら一番いい感じ。