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【読書感想文】マン『ヴェネツィアに死す』─美のイデアと死の香り

とても観念的な物語でした。

いまとなっては美少年を描くというのは何の変哲もない事のようですが、きっとまだ当たり前ではない時代があったはずです。

初老くらいの小説家からみた世界で、美少年を眺めているのか少年を通して「美」をみているのか、よく分からなくなります。

20世紀を代表するドイツの文豪、トーマス・マンの小説『ヴェネツィアに死す』を読みました。

前回まで『地獄変』や『月と六ペンス』と読み進めてきた芸術をテーマにした作品群として、今回はこの小説を紐解いてみました。

光文社古典新訳でとても読みやすい日本語ですが、タイトルに違和感を覚える方もいるかも知れませんね。

ヴィスコンティの映画が有名で邦題の『ベニスに死す』が人口に膾炙していますが、わたしはヴェネツィアという響きも好きです。

美少年との邂逅から

主人公のアッシェンバッハはそれなりに成功した小説家で、ドイツのミュンヘンを旅立ち、イタリアの水の都ヴェネツィアに向かいます。

彼はリド島のホテルに泊まり、そこであるポーランド人の一家に遭遇します。その子どもたちの中にずば抜けて眉目秀麗な少年がいました。

十五歳から十七歳と思われる三人の少女と、髪の長いおそらく十四歳くらいの少年。アッシェンバッハは、この少年が完璧に美しいことに気づいて愕然とした。うち解けないその顔は青白く優美で、蜂蜜色の髪の毛に囲まれ、鼻筋は真っ直ぐ下に通って、口は愛らしく、優しく神々しいまでに生真面目な表情を浮かべ、もっとも高貴な時代のギリシア彫刻を思わせた。形式が最高の純粋さで完成されながら、一度きりの個人としての魅力も持っている。これを見ると、生身の人間であれ、造形芸術であれ、これほどに恵まれた実例には出会ったことがないと確信された。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』岸美光:訳(光文社古典新訳文庫)

雷が落ちたような、美に圧倒されるシーンです。

わたしはこの小説を読むずっと前にヴィスコンティの映画を見たことがあって、ビョルン・アンドレセン演じるこの美少年には性別を超えた何かを感じた気がします。

その名をタッジオと言います。

ギリシャ彫刻に喩えるあたりが非常にヨーロッパ的ですが、日本人のわたしにも何か響くものがありましたし、上の世代の方であれば結構知っている映画かなと思います。

記憶が曖昧でよく覚えていませんが、おそらくこの映画の影響もあって一度旅行でヴェネツィアに行ったときはリド島までわざわざボートで行ったくらいです。

眩しい陽光に輝くみずいろの海が本当に奇麗なところでした。

ですが、この作品の中で描かれているヴェネツィアは一味違い、少し影があるというか、そこはかとなく暗く不健康な感じが漂っているのです。

タッジオもどことなく患っているような様子で、きっと永くは生きられないのだろうとアッシェンバッハも感じていました。

ストーリー展開には捉えどころのなさがあって、アッシェンバッハの空想や観念の中に引きずり込まれるような文章が続くのが特徴です。

離島のホテルに逗留しているので、食事や外出の際などに否応なく例の美少年と顔を合わせることになる訳ですが、常に浮遊感があります。

彼の目は、向こうの青い海の縁に立つ気高い姿を、その視線の中に収めた。そして崇拝する喜びに夢中になって、この視線で美そのものを捉えたと、神の考えたものとしての形式を、唯一無比の純粋な完全さを捉えたと確信した。神の中で生きているものが、人間の姿をとり、比喩となって、ここに軽やかに優美に、礼讃らいさんの対象として据えられたのだ。それは陶酔だった。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』岸美光:訳(光文社古典新訳文庫)

こんな感じの文章を読んでいると、ドイツ哲学っぽさが溢れているように思います。

アッシェンバッハは小説家なわけで、タッジオを言葉にして写し取ろうと試みたり、または遠くからじっと眺めていたりなど非常に内向的です。

どんなに心奪われていても、声をかけるなんてとんでもないといった感じで、あくまで寡黙に距離を置いて、崇めるように彼の精神や美をみつめているような振る舞いです。

美への希求が死を呼び寄せる

実は流行り病があって、街の様子が少しずつ不気味になって来ます。

アッシェンバッハは最初そのことを知らなかったのですが、少しずつ状況を呑み込み始め、いよいよタッジオらポーランド一家を置いてホテルを出発して帰ろうとします。

ですが、ハプニングに巻き込まれます。

さきに荷物を対岸まで送ったつもりがそのまま行先の方まで持っていかれてしまい、アッシェンバッハは荷物がないなら出発しないと憤慨してホテルに戻って来ました。

内心ほっとして喜んでいる訳です。

再びタッジオを眺めて愛でることはできますが、ヴェネツィア全体に闇が落ちていき人も少しずついなくなっていきます。

ヴィスコンティの映画の方が街の様子なども映像として流れて来ることもあり、とても色濃くこの「死」の気配を描いていたような気がします。

小説の場合、街の状況や情景よりもやはりアッシェンバッハの考えを覗くシーンが多く、美との対話が続いていきます。

さてこれで、私たちが賢くなることも、威厳を持つこともできないということをわかってもらえただろうか。私たちが否応なく道に迷う、否応なく放埒で、感情のアバンチュールを求めてやまないということを。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』岸美光:訳(光文社古典新訳文庫)

徐々に思想性が濃くなっていき、美は道だとか、憧れは愛だとか、それでいて私たちは迷うのだみたいな感じで、相当深く美に侵されていますね。

そして、いよいよラストシーンです。

広い水の帯によって固い地面から隔てられ、誇り高い気まぐれによって仲間たちからも隔てられ、少年は歩みを進めていた。あらゆるものから切り離された、なにもかも結びつかないその姿は、髪をなびかせて、あの遠い海の中に、風の中に、霧のような無限の前にいた。ふたたび少年は立ち止まって遠くを見た。そして突然、何かを思いだしたように、何か衝動に駆られたように、腰に手をあてて、まっすぐな姿勢から美しく上体をひねって、肩越しに岸の方を見た。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』岸美光:訳(光文社古典新訳文庫)

とても美しい情景ですね。

この小説中でも勿論映画の中でも、圧倒的に雰囲気があるのは最初の遭遇してしまった瞬間ではなく、この最後の後ろ姿だなと感じます。

ここまで来るともうはっきりしていますが、アッシェンバッハはひとりの少年に陶酔しているようでそうではなく、彼を美の化身のように崇めて、その姿を通じてイデアをみています。

だからこそ最後のタッジオは直接表情がみえず、穏やかな海と空の境界すらもあいまいな背景にあって、光を受けた影としてアッシェンバッハの瞳に映っていました。

そこに死の香りがするというのがどこか世紀末的でドイツ的で、トーマス・マンならではだったのかなと思います。

残念ながら、個人的に感動はあまりなかったです。映画のエンディングそのままなんだなという驚きの方が大きかったと思います。

何も知らずにこの小説を読んでいたらきっと違ったことでしょう。

マーラーのシンフォニーに寄せて

読んでいるとヴィスコンティの映画を思い出してしまいますが、それ以上に、引用されているマーラーのアダージェットがずっと脳内で流れています。

天才的なセンスと言うほかありません。

コンサートでこの楽曲を聴くとき、今後はこの小説をのことを思い出すでしょう。ただ、音楽はずるいですね、何もせずとも頭の中に流れ込んでくるわけです。

その意味では、映像もまた流れ込んできます。

それらと比べると文章というのはとても不器用で、訴えかける機能としてはかなり脆弱な気がします。一方で深く潜っていくようなことには向いているようにも思います。

映画にはあまり感じられなかった、アッシェンバッハの内的な世界に触れられたのは文章の力のなせる業と言えるでしょう。

あとがき

意外と短いのですが、とても深みのある小説でした。

マンの小説はこれまで『トニオ・クレーガー』や『魔の山』なども読んできたので、いつか『ブッデンブローク家の人びと』を読みたいです。

ドイツの小説って少し肌に合わない気はしますが、なんだかんだ読んでしまいます。

芸術シリーズとしてピックアップした作品でしたが、もっと根源的に美そのものを描いているようで面白かったです。

次は永井荷風の『すみだ川』や川端康成の『山の音』など、また日本の芸能の世界観に浸ってみるのもいいだろうと考えています。

以上。




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