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さよなら、イラストレーター。

AIに仕事を奪われる、お前も奪われるぞ、お前もお前もみんな奪われるのだ、と、我々は我々が生み出したものにさんざん脅されてきたわけですが。

今年4月。まず、「イラストレーター」がわかりやすく仕事を奪われた。

これまで画像生成AIと言えば、「Stable Diffusion」で「adobe Firefly」なんて役立たずもいいとこだったんだけど、オープンAIの「GPT-4o」が4月くらいに画像生成機能を強化。触っているうちに、あれ、これってもう一気にいろんなライバルをぶち抜いてるよねと思った。小さな違いが、大違い。あきれるほど使い勝手がよくなっている。

何がすごいって、生成する画像に、再現性があること。これが現場でいちばん多い、驚きの声。というか「助かるわー」という感謝の声。

例えば、「ある社長の写真をイラスト化してほしい」と、AIにお願いしたとする。

でも、AIは、一発OKのイメージをつくってくれない。

ネクタイの柄が変だったり、スーツのボタンが減っていたり、直しの指示を入れるたび、今度はネクタイの柄が直っていても顔が別人になっていたり、しかも、腕時計がこっそり消えてたりする。必ずどこかで余計なことをしてくれる。

だが、「GPT-4o」は違う。

OKを出した部分はそのままに、修正箇所をしっかり直してくれる。そんなこと?って思われるかもしれないけど、そんなこともできなかったんだよね。

人間のイラストレーターに発注していたら、もっと細かな修正が効くじゃないか。

と、言うご指摘はごもっとも。

でも、人間は人間でさ、ややこしい。

修正指示を伝えるメールを送って、電話で話して、スケジュールの相談して、1週間後までに修正してもらって、ちょっと違ったら、また修正メールを送って、、、となっていたやりとりが、AIなら5分10分で終わる。嘘みたいにタイパがいい。しかも、AIには余計なプライドがないから人間関係の軋轢も生まれない。気を悪くされないかな、と、気を遣わなくていい。

独特なタッチや世界観を売りにしているイラストレーターでさえ、「タッチを真似て」のプロンプトで、存在価値が極限まで薄まる。平たく言えば、めちゃくちゃパクれる。

タッチをパクる。もちろん、これは、著作権侵害なわけだ。

でも、著作権侵害って「依拠性」と「類似性」を満たすと成り立つんだけど、この証拠がまた証明しにくい。

そもそも「似てる」って誰が決めるんだろう。AIが描いた絵に、自分の絵の「におい」がしたとして、それって盗用? インスパイア? 偶然?ChatGPTで「こんな感じのキャラ描いて」と言ったら、なぜか自分の過去作にそっくりなものが出てきた。だけど、OpenAIは学習データを公開しない。依拠性を証明できない。訴えようにも「お前の絵、そんなに特徴あった?」って、AIが問い返してくる。

現状、パクるほうに有利すぎるんだよね。

AIは、「何をどう学習したか」を開示してないし、学習データの出典を特定できない。つまり、「うちの作品が使われた!」と証明することがほぼ不可能。「類似性」は人間の感覚でしか判断できない。たとえAI出力と似ていても、「偶然です」。人間が1日かけて描いた絵を、AIは5秒でそれっぽく再現できてしまう。なのに、責任も著作権も問われない。

4月に起きたことってさ、イラストレーターという職業の「根幹」を揺るがすほど致命的な事態だと思う。

これ以後、何描いてもパクられる=トーンやパーツの供給者ってことになる。

クレジットも消え、著作権も証明できず、依拠性の証拠も取れず、作品の雰囲気だけが、AIに使い回されていく。

盗用ってレベルじゃなくて、もはやAIによる職能の「吸収と再構成」と言っていい段階。単なる市場変化じゃなくて、存在の否定に近い。

イラストレーターと名乗っているものどもよ。おまえらはもういらないのだ。

と、AIは言っている、に、等しいような気がするな。

と、まあ、ここまでは悲観的な話。

でも、こうした流れを、そんなに悲しいことじゃないんじゃないか、と思ってる。

たぶん、AIがはぎ取っていくのは、商業的な意味でのクリエイティブ。

企画に合うビジュアル、効率的な構図、ウケそうな色づかい、修正が効く、拡張性のあるデザイン、目的に対して最適化された創造は、もうAIの独壇場。

そう、目的だ。目的のあるクリエイティブ、商業デザイン。

これらが、奪われたって考えるんじゃなくて。

そういう営利的なことを、やらなくてよくなった、と考えている。

AIが進化し切った先に、

絵を描く必要がなくなって、
それでも描く理由がないのに描いてる人間が、
ぽつんと残る。

商業的なイラストレーターが消えた先に、人間的な意味でのイラストレーターが、やっと見えてくる。

えをかく。

って、そもそも存在的な証明だったわけなんだ。

象徴的な例を挙げると、自分のこどもが描いた絵。

冷蔵庫とかに貼られてる、あの絵の価値って、

「この子が、いま、ここで、初めて描いた」

っていう時間と存在の証明なんだよね。

「子どもの絵こそ、「絵」「作品」であるというよりも、生活そのものなのである。」

と岡本太郎は言ったけど、その通りでさ。

イラストレーターの価値がなくなったからと言って、こどもからクレヨンを取り上げる必要はない。こどもは描いてみたいから描いてる。絵筆を取り上げられたのは、お金を稼ごうとする大人だけだ。

写真が発展しても、洋画はなくならなかったように。

「誰かが、あなたに描いてほしいと願った絵」
「この人が描いたから、意味がある絵」

そういう名指しの絵にしか価値がなくなっていくのかもしれない。

好きなひとだけが描いている。

絵を好きなひとと、そのひとを好きなひとが喜んでいる。

それって、なんて豊かな未来なんだろうと思う。

AIは、職業的なクリエイティブを奪っていくわけだけど、

人間的なクリエイティブを思い出させてくれるわけだ。

こどもの絵のような、宇宙と遊ぶような、あの感覚を。



さて、きょうの音楽は、たま「さよなら人類」



AIに奪われる仕事とか、この曲を聞くとどうでもよくなっちゃうよね。

子どもの目線みたいなナンセンスさ。

でも、どこか終末的でシュールな不安。

それをゆるい音に包んで、逆に意味の崩壊と祈りが同居してる。

意味を手放したときに、意味が生まれるわけだ。

なんて、分析すら意味がない。

売れなくなる、稼げなくなる、なんて、焦りは「たま」にはない。

AIが発展したって、どうでもいいんだよね。

描きたいって人が、描くだけのこと。

なんとかなるよ。




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エート・ドーシヨー 正直、なんでこんなことしてんのかなって思うこともあります。「続けていいよ」って思ったら、チップください。