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【いばしょの余白記録】私はこの場にいていいのか、と常に考えながら生きる癖

私は「ここに存在していいか」を常に考えながら生きてきた。

生まれたときから両親はいて、経済的にも特別困っていたわけではない。でも両親は私にあまり関心はなく、気持ちは無視され、まるで存在を認められていないみたいだった。子どもながらに、感情を出すことは危険だとも悟っていた。

だから幼い頃からどこか心が落ち着かなくて、無条件に「ここが自分の場所だ」と感じた記憶があまりない。そしてその感覚を言葉にしてきた経験も、ほとんどない。

家の中でも、学校でも、人間関係の中でも、なんとなく外側に立っている感覚があった。盛り上がっている皆の輪の中には入れない。努力では解決できないレベルで入れなかった。いつも片隅で静かに過ごしている子。クラスに一人くらいいる、つかみどころのないあのタイプだった。あの輪のなかにどうやって入っていいのかわからない。

大人になっても、それは変わらなかった。職場でも、町でも、人の集まりの中でも、どこかで少し身を引いている自分がいる。輪の中には本質的に入れない。私はずっと居場所を探していた。「私はここにいていいのかな」と頭フル回転で考えながら。

でも最近、少し違うのかもしれないと思い始めた。私は居場所を探しているというより、ずっと居場所を観察してきたのかもしれない。

どこに行っても、まず空気を見る。人の距離感を測る。誰が中心で、誰が周辺かをなんとなく把握する。その場所に暗黙のルールがあるかどうかを感じる。そして最後に、「自分はここにいて大丈夫そうか」を考える。

たとえば、知らない町を歩くとき。店に入りたいと思っても、まず店の中の温度を感じ取ってしまう。地元の人が作っている空気なのか、外から来た人も混ざれる場所なのか。自分が入ったら浮くのか、溶け込めるのか。そんなことを無意識に判断する。

もちろん、入ってみたら違っていて後悔してそそくさと撤退することもあるし、怖いけれど気合いで乗り込んでみたら、案外居心地がよかったりもする。それでも、まず観察してしまう癖は変わらない。

職場でも似ている。誰と誰が近くて、どの距離まで近づくと安心で、どこを越えると面倒になるのか。グループの配置や空気の流れを見て、自分の立ち位置を決めている。自然にそうしてしまう。良く言えば七変化できるし、悪く言えばとても消耗する。

前は、こういう自分を不器用だと思っていた。人の輪に飛び込めない自分はどこか欠けているのだと思っていた。

でも最近は、これは単に「所属する前に構造を見てしまう癖」なのかもしれない、と考えるようになった。
大人になって訓練を重ねた結果かもしれないけれど。

子どもの頃、家庭の中で無条件に安心して居られる感覚がなかった。世間から見れば普通の家庭だったかもしれないが、内側にいた私は、確実に消耗していた。家庭は、安心する場所ではなく、気を張る居場所だった。「ここにいていいのか」を、ずっと考え続けていた。そのついでに、感情も封印して育った。
だから今でも無意識に、「ここにいていいか」を確認してしまう。そして静かに内省する。今の自分を振り返ると、そんな気がしている。

居場所を観察してしまう生き方は、楽ではない。すぐにどこかに根を下ろせるわけでもない。
実際、住所も職場も点々としている。当然、人間関係も点々としていく。

でもその代わり、場所や人の空気には少し敏感になる。外側から見える景色もある。

これからも簡単に「ここが自分の場所だ」とは言えないと思う。それでも、観察しながら歩いていくのだと思う。

ある人は言う。体育祭では主人公になれよ、外側から眺めているだけの奴なんてつまらないだろ?と。それは正論だと思う。でも胸の中には、そうならざるを得なかった複雑な感情が詰まっている。必死に耐えて守ってきたものが、静かに切り裂かれるような感覚がある。

このnoteには、私の居場所の探索記録を書いていこうと思う。そして同時に、閉じすぎないように、腐らないように、という自戒も込めて。

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