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法の精神 #1

人民が啓蒙されているかは些事ではない。為政者のもつ偏見は、国民がもつ偏見から始まる。無知蒙昧の時代には最大の悪事をなすときにさえ、人々はなんの疑感も抱かない。啓業の時代には、最大の善事をなすにさいしてすら、なお人々はおののくのである。

人間、この柔軟な存在は、社会にあっては他人の思考や印象に従うものであるから、みずからの本性を、他人がそれを示せば、認識することもでき、もし、それを隠すならば、その本性をその感覚にいたるまで喪失することすらひとしく可能なのである。

植物には、悟性も感情も認められないが、その植物のほうが、より完全に法則にしたがう。

人間は、社会生活を営むや、劣弱さの感覚を失う。かつて相互間にあった平等は終わり、戦争状態が始まる。

万民法は、当然、次の原則の上に成り立つ。諸民族は、おのおのの真の利益を損うことなく、平時においては最大限の善を、戦時においては最小限の悪を互いになすべきである。

社会は、政府なくしては存続しえないであろう。まことにグラヴィナの至言のごとく、あらゆる個別的力の統合がいわゆる「政治状態」を構成するのである。

リバニオスは、アテナイでは人民集会にはいりこむ外国人は死刑に処された、と述べている。このような男は、主権を簒奪する者だからである。

帝国が広ければ広いほど、後宮は大きくなり、したがって、君主はよりいっそう欲望に酔いしれる。こうして、これらの国では、君主は統治すべき人民をもてばもつほど、統治を考えず、政務が大きければ大きいほど、政務を議することは少なくなる。

君主政体や専制政体がおのれを持し、おのれを保つには、清廉篤実は多くを要さない。前者では法が、後者ではいつもふりあげられた君主の腕が、すべてを処理し、抑制する。しかし、民衆国家には、いま一つの発条が必要であり、それは「徳性」である。

スラがローマに自由を回復しようとしたとき、ローマはもうそれを受けとることができなかった。ローマは、もはや徳性のわずかな残滓しかもたず、その後も、それはより少なくなるばかりだったから、カエサル、ティベリウス、カイウス、クロディウス、ネロ、ドミティアヌスと続いた支配者の交替ののちにも、めざめるどころか、より奴隷化するばかりだった。打撃は、もっぱら圧制者にのみ加えられ、圧制自体には加えられなかった。

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