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短篇小説【その夜の惑星】

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その人は北国の生まれだと言っていた。
ひと月と十日ばかり過ぎる頃合いになると、何の前触れも無く現れてその人は静かに鏡と向き合った。
空港という場所柄、予約の客よりも飛び込みの客の方が多かった。
その人は毛先を少し整えた後、漆黒の色に肩までのストレートヘアを染めていった。
搭乗時間から逆算して、たっぷりと時間にゆとりを持ってその人は現れる。行先はその都度違っているようだった。
あまり世間話が好きなタイプには見えなかったので、必要最低限の事以外は話し掛けなかった。
それが功を奏していたのかは分らなかったが、その人は決まった周期で私の前に姿を現した。
年の頃は五十手前といった所か。
細い首元と、浮きだった肩甲骨が最初に目を引いたのを覚えている。
今では珍しく、現金で勘定を済ませた後、必ず店の斜向かいにある喫煙所に煙草を吸いに行くのに意外な印象を受けた。
私が名前も知らぬその女性客の事を忘れられない理由には、ある偶然の出来事が由来していた。
その日もその人は髪を染めている間、細い首を少し傾けて手元のスマホを覗き込んでいた。
飾り気の無い白いシャツに、グレーのパンツ姿。
装飾品も身に付けず常に薄化粧な彼女は、どことなく世間離れした気品を漂わせていた。
私がコームで毛先に染色剤を塗っていると、彼女が小さく「あっ」と声を洩らした。
私は反射的に染料が服に落ちたのかと慌てたが、すぐに彼女が鏡越しに私の目を見てこう言ったのだった。
「今日のフライトが欠便になったわ。渡航予定だった空港で着陸事故があったらしいの」
彼女はそれだけ言うとまた平常通りの様子で黙って私の施術を最後まで受けていった。
お釣りの出ない様に小銭を使って勘定を済ませ、また煙草を吸いに喫煙所に消える。
これから海外に行く人間がどうして財布にあんなにも小銭を入れていたのだろうか。
私はそんなどうでも良い事を考えながら、その後の業務を淡々とこなしていった。
六時になって店を閉め、私が帰途に付こうとしていたその時、驚いた事に目の前に彼女が立っていた。
彼女は真っ直ぐに私の目を見て、しばらくして少し微笑んだ。
「お仕事お疲れ様。驚かせてしまったかも知れないけど、もし迷惑でなかったら少しお話出来ないかと思って。フライトが明日になったので空港の隣のホテルに部屋を取ったの。お嫌いでなかったらお酒をご一緒しませんか?」
私は心底驚いてしまっていたが嫌な気はしなかった。
ずっと贔屓にしてくれている客であるという事抜きにしても、その女性に好感を持っていたのも確かだったのだ。
それでも意外な展開に戸惑いはあったが、私は結局その誘いに応じる事にした。
その日は梅雨の中休みの蒸し暑い夜で、薄い雲間から明るい月の光が差していた。
 
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ホテルの12階のラウンジの窓からは、旅客機が行き交う滑走路が一望出来た。
オレンジや赤や緑のライトが等間隔で並んだその光景は、暗い海に浮かぶクラゲの様で美しかった。
着陸した旅客機の安堵と、離陸する旅客機の不安とが、常にプラスとマイナスでゼロになっていく様な、何とも言えない不思議な均衡がその景色に独特の神々しさを与えていた。
シーズンを外れていたのでラウンジに人の姿は疎らだった。
色とりどりの酒瓶が並んだバーカウンターのバーテンダーも、グラスを並べながら虚ろな目をフロアに投げ掛けていた。
私と彼女は滑走路を見下ろす窓辺のカウンター席に並んで腰を掛けていた。
まるで鏡越しに視線を交わしていた店での関係を引き摺る様に、ここでも窓越しに視線を交わす。
彼女はジンのカクテルを、私はウイスキーをソーダで割ったものを頼んでいた。
なぜ彼女は私をここに誘ったのか。
私は其の事ばかり頭の中で反芻していた。
「あなた生まれは?」
彼女が唐突にそう問い掛けてきた時、私は彼女の左手の薬指に細いリングが光っているのに気が付いた。
店で彼女の髪を染めている時には確か無かったはずだと思った。
「生まれは東京です。蒲田の辺りです。今も実家の近くに住んでて勤めは羽田なんで・・だから私の一生はこの半径10キロメートル以内で事足りてしまうんです」
「そう。私はもっとずっと北の方で生まれたの。とても寒い所で。冬がとっても長くて、夜がとっても深い所。だから私は明るい所が好きなの」
その日の私と彼女の会話は、嚙み合っている様でどこか的外れでもあって、互いに向き合っていたかと思うと、それぞれに違う方向を見ている様な、何とも捉え所の無いものだった様に思う。
長い間美容師と顧客という立場で、適度な距離感で接していた名残がこの日の二人の会話をぎこちない物にしていた様にも思う。
とにかく私は彼女と、こうして立場を超えて並んで座っている事が、全く理解出来ないままにその場にいたのであった。
「あなたはどうして美容師になったの?」
「えーと、父親が蒲田で小さな床屋をやってまして。それで子供の頃からそれを見てたもんだから、何となくその道に進んで行ったというか、まぁそんな感じです」
「なるほど。ご結婚は?」
「前にしていました、けど今は独身です」
「お子さんは?」
「小学四年生の女の子が一人。今は元嫁と再婚相手と三人で海外に住んでる、そうです」
彼女の矢継ぎ早の質問に、嘘を付く事も無いと思って素直に答えていたが、窓越しの彼女はその答えにさして関心がある様にも見えなかった。
心ここにあらずとまではいかないものの、彼女は常に薄い膜に覆われていて外の世界と直接触れる事の無い人間の様に私には見えた。
そのどこか常人とは違う様な雰囲気に、私は微かな好奇心を持っていた事を思い出した。
いつも同じ髪型にカットして、漆黒に毛先迄染め上げる。
でもひと月と十日程するとまた根元に現れた白い部分を念入りに染めに来る。
それまで彼女の素性を想像した事が無かった訳では無いが、改めて考えてみると中々謎に包まれた人物だと思った。
「この空港は十万人以上の人が毎日行き来する場所なんでしょ?あなたはそこで毎日人の髪の毛を切っている。ねぇ、それって何だかとても不思議な事だと思わない?」
彼女が何を言いたかったのか、私にはその真意が今一つ掴めなかったが、彼女が冗談を言っている訳では無い事だけはその表情で分った。
「世界中からやって来る外国の人達の髪の毛を切ったり、これから外国に行く人達の髪の毛を切ったり、あなたのハサミは通り過ぎる人達の形を変えてしまう事が出来るのだもの」
彼女は自分の言っている事に一人で納得した様に頷いて、グラスの中身を全て飲み干した。
急なフライト変更の退屈しのぎなのか、前から私に何かしらの好意を持っていたのか、彼女の言動からは何も分らなかったが、その日の彼女にはどこかいつもの落ち着きとは違う浮足立った所が少なからず見えた。
私は滑走路の光の瞬きを眺めながら、この場所を通り過ぎて行った数え切れない人達の事を何となく考えていた。
それは私にとっては余りにも日常的な、当たり前の事だったので、特別な感慨を今まで持った事は無かったけれど、この場所のどこにも属さない様な宙ぶらりんな頼りなさを改めて思い出させられた事で、何だか不思議な気持ちがしていた。
私の一生は確かに半径10キロメートルの中で完結するが、そこを通り過ぎる人達の髪に触れる事で自分は生かされている様な、何だか妙な宿命を感じたのだ。
「小さい頃ね、住んでいた家の床下に大きな蛙がいたの」
唐突な話題の転換に私は呆気に取られて返事も碌に出来なかった。
蛙?一体何の話だ?
「本当にとても大きな蛙だったので、入ったはいいものの出られなくなってしまったのだと思うの。縁側の下の通気口の金網の向こうに、外をじっと見つめている姿が見えたの。夜になると悲しげな声で鳴いて。昼には暗い場所から明るい陽の差す庭をずっと見つめている。少し首を傾げて、まるで自分の置かれている状況に深い考察を巡らせている様だったわ」
私は彼女の不思議な話に耳を傾けながら、自分の運命に考えを巡らす蛙について少し考え、それから目の前の窓ガラスに映った彼女の肩まで真っ直ぐ伸びた黒い髪の毛を見つめた。
その向こうの暗い夜空には、風に吹かれた大きな雲の塊が音も無く流れていった。
私も彼女もウェイターに同じお酒を注文して、特に相手の言葉の真意に執着しない時間を、互いの方法でじっくりと味わっていた。
それはとても不思議な夜だった。
彼女はずっと同じペースでグラスを傾け、それでいて一向に酔った様子を見せなかった。
私も酒には強い方だったが、仕事の疲れで少し意識が朦朧としかけていた。
「私の元夫はね、トルコで死んだの」
また唐突な話だった。
私はそれをまるで遠い国のおとぎ話の様に、密かな教訓とさり気無い道徳に彩られた物語を聞く様に耳を傾けていた。
彼女の淡々とした語り口と、ラウンジに流れていたジャズのリズムが心地良くて、私は彼女の物語に自然と身を委ねていた。
 
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「夫はカメラマンでね、トルコの世界遺産を巡って写真を撮っていたの。カッパドキアの洞穴群を撮影した帰りの夜道でね、一人でいる所を襲われて死んだの」
彼女の表情は少しも変わらなかった。
遠くの滑走路の誘導灯に視線を置いたまま、声色にも何の変化も無かった。
「その辺りは治安が悪くてね、外国人観光客を狙った物取りが多かったらしいの。お金を渡せばそれで大概は済む様な話なのに、あの人はきっとそれに応じなかったのだと思う。余りにも容疑者が多過ぎて結局犯人を特定出来なかった。それがもう10年前の事なの」
ラウンジにはビル・エヴァンスのピアノが流れていて、その正確無比なタッチが私の頭の中に響き渡っていた。
まるで想像も付かない出来事に聞こえた。
半径10キロメートルの生涯を生きる私には、酷く現実味を欠いた話に聞こえた。
「一報を聞いて私は直ぐにトルコに飛んだの。それが私の生まれて初めての海外渡航だった。私もね、せいぜい半径10キロメートル以内の生活圏で十分な人間だったの。暗い床下で外の世界を眺めている蛙の様に。それで十分幸せだったの」
私は曖昧に頷いて、微かな声で相槌を打っていた。
それ以外どうしていいのか見当も付かなかった。
「その時ね、日本の大使館の職員さんが私と彼と、一緒に飛行機に乗って羽田まで付いてきてくれたの。あっちの警察とか、役人とか、よく分らない沢山の人達と素早く話をつけてね。あっと言う間に日本に帰してくれたの。私はその事に凄く救われて、それで自分の生き方を深く考えたの。それまで一度も考えた事が無かった。自分が生きている事の意味の様なものについて。その事は凄く私にとって大きな意味がある事だったの」
彼女の声と、ビル・エヴァンスのピアノの音色はよく合っていた。
互いを邪魔せず、互いの物語を補い合っている様だった。
私はラウンジの暗い照明に浮かび上がった周りの人達の顔を窓越しに密かに眺め回した。
この中に自分の生きている意味について深く考えた経験を持つ人間がどれ位いるのだろうか。
そんな事見当もつかなかったけど、少なくともそこに自分は含まれないと思った。
気が付くと私のグラスも彼女のグラスもまた空になっていた。
私が手を挙げてウェイターを呼ぼうとすると、彼女は静かにスツールから立ち上がって、小さく息を一つ吐いた。
「私はそれ以来自分の半径を大きく広げたの。地球がすっぽり入ってしまう位に。失ったものは大きかったけど、得たものもちゃんとあった」
彼女はそう言うと、ゆっくりとラウンジの通路を歩いていって、そのまま消えて行ってしまった。
私は暫く窓の外の滑走路の光を眺め、もう一杯だけウイスキーのソーダ割りを飲み、そしてそのホテルを後にした。
 
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翌朝スマホのニュース記事で、昨日の着陸事故がトルコの空港だった事を知った。
彼女は無事に旅立ったのだろうか。
羽田第一ターミナルは昨日の余韻など微塵も感じさせない様に忙しく躍動していた。
私の変わり映えのしない一日も寸分違わずやってきた。
遠い国からやって来た人間の髪を切り、これから遠い国に旅立つ人間の髪も切った。
無意識で繰り返す呼吸や体温調整の様に、生活も意識していないとその意味を失っていく。
私は暗い滑走路に瞬く誘導灯と、暗い床下でじっと外を眺めている蛙の事を考えた。
きっと彼女が私の前に姿を現す事は二度とないだろう。
なぜだかそんな気がした。
私はそれを少し残念に思ったが、その事で彼女の物語が終わってしまう訳では勿論無い。
私の物語も勿論終わらない。
半径10キロメートルの生涯から飛び出して、カッパドキアを歩く自分の姿を少し想像してみた。
それも実際悪くないアイデアの様に思えた。
昼を過ぎた頃、英字新聞を熱心に読んでいる白人男性の髪を整えていた時に鏡越しに私を見つめる視線に気が付いた。
私の予想は大きく外れた様だった。
店のドアの前に立つ、黒い髪の彼女が静かに私に微笑んでいた。

           完

illustration by chisa   
 
         あとがき

こんにちは。ころっぷです。
この度は【その夜の惑星】を読んで頂きありがとうございます。

今回は少し大人っぽい雰囲気の物語になりました。
互いの人生が重なる一瞬の温度の様なものを、
表現出来たらなぁと思って書きました。
あえて書かない行間の部分を、
読んだ人それぞれが埋めていっていただけたらと思います。

長編小説には中々取り掛かれていませんが、
焦らずにじっくりと向き合っていきたいと考えています。

また次回作でお会い出来るのを楽しみに。

2024・6・30 ころっぷ


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