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第2節技術者の戦争——円谷英二の戦中

前節で確認した問いに答えるために、まず一人の技術者の軌跡を辿る必要がある。
円谷英二は1901年(明治34年)、福島県須賀川に生まれた[i]。1919年(大正8年)、18歳で天然色活動写真株式会社(天活)に入社し、映画界へと踏み出した[ii]。
第3章で論じたように、天活の撮影技術部門の中心人物だった枝正義郎のもとで、円谷は撮影・現像・編集など映画製作の基礎を習得した。牧野省三の忍術映画が切り開いた国内のトリック映画の系譜を、円谷は自分の手と目で身につけていった[iii]。

その後、松竹・日活などを経て、1937年(昭和12年)に東宝へと加わり、新設された特殊技術課の課長として特撮部門を専任で担うことになり[iv]、円谷の技術者としての力量は本格的な開花の時を迎えようとしていた。
しかしその時代は、日本が十五年戦争の深みへと踏み込んでいく時代と重なっていた。

1942年(昭和17年)、円谷英二は映画『ハワイ・マレー沖海戦』の特撮を担当した[v]。真珠湾攻撃とマレー沖海戦を題材にしたこの戦意高揚映画は、海軍省の後援のもとに制作され[vi]、東宝の劇場で広く公開され、日本映画史上空前の大ヒットとなった[vii]。

ここで、第3章で論じた命題が、円谷自身に跳ね返ってくる。
「映画という技術は中立ではない」——その言葉は抽象的な問題ではなかった。円谷が磨き続けた「現実にないものを現実のように見せる技術」は、『ハワイ・マレー沖海戦』において、その力を最も鮮烈な形で示した。円谷はそれ以前の『海軍爆撃隊』(1940年)、『燃ゆる大空』(1940年)、『南海の花束』(1942年)などで積み上げた経験をもとに、本作の特殊技術を担当した。完成したミニチュアによる真珠湾攻撃シーンはあまりに精緻で、戦後にはこの映像が実写の記録映像と見なされたという逸話が今も語り継がれている。ミニチュアの軍艦が本物の軍艦に見えるとき、その「嘘の技術」は観客を戦争へと動員する力として機能した。

しかし、円谷自身がこの仕事にどのような意図や判断をもって関わったのかは、別の問題である。当時の映画産業が映画法(1939年施行)によって国の統制下に置かれ[viii]、海軍からの製作命令を個々の映画人が拒むことは現実的に困難だった——という構造自体は確実な事実だ。だが、その中で円谷個人がどこまで主体的に向き合っていたのか、技術者としての職務を超える関与があったのかは、本人の証言や書簡、関係者の回想といった一次資料を検証しない限り、確定的に語ることはできない。

一つ確かなことがある。敗戦後、円谷英二は活動制限を受けた。1948年、円谷は東宝を退職した[ix]。GHQの占領政策の一環として映画界の重役層にも及んだ公職追放措置の結果であり、東宝の特殊技術課もこのとき解散した。GHQは戦時中に軍国主義的な活動に関与したとみなされた人物を広く公職から追放した。その対象は政界・財界・軍・教育界・言論界など社会の広範な領域に及んだ[x]。円谷の活動制限は、この構造的な占領政策の文脈の中に置いて理解する必要がある。映画界において円谷だけが特殊だったのではない。

しかし円谷の沈黙の時期は、単なる「空白」ではなかった。
この時期、円谷は何をしていたか。円谷はこの時期、映画から完全に離れたわけではなかった。自宅に「円谷特技研究所」を設立し、大映・新東宝・松竹など他社の特撮を個人として請け負い続けた。この仕事は非公式なものだったが、技術の蓄積は途切れなかった。1952年2月、追放解除とともに円谷は東宝へと戻った。確かなことは、彼がこの時期を経て復帰したとき、その技術的な蓄積は失われていなかったということだ。むしろ、技術を取り巻く文脈が根本から変わった世界で、その技術を何のために使うかという問いと、円谷は改めて向き合うことになった。
その問いへの答えが、次節以降で辿る歴史の中に現れてくる。



[i] 国立映画アーカイブ「生誕120年 円谷英二展」公式ページ
[ii] 『平成24年度日本特撮に関する調査』第2章10頁。メディア芸術カレントコンテンツのウェブサイト下記ページでダウンロードできる。https://mediag.bunka.go.jp/article/tokusatsu_report-916/
[iii] 円谷英二については次の研究書がある。真鍋公希『円谷英二の卓越化――特撮の社会学』(ナカニシヤ出版, 2023)
著者自身による同書の紹介記事がある。
[iv] コトバンク「円谷英二
[v] 同上。 
[vi] Peter B. High, The Imperial Screen: Japanese Film Culture in the Fifteen Years' War, 1931-1945.(University of Wisconsin Press, 2003)Internet Archiveにて全文閲覧可能(要無料登録)
[vii] 『平成24年度日本特撮に関する調査』第2章13頁。『ハワイ・マレー沖海戦』の制作過程については、次の研究書が詳しい。鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々――円谷英二と戦時東宝特撮の系譜』(文芸社, 2020)
[viii] 映画法による映画統制については、下記の文献が詳しい。加藤厚子「日中戦争期における映画統制――映画法制定をめぐって」『史学雑誌』109巻6号(2000年)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/109/6/109_KJ00003649059/_pdf/-char/ja
古賀太「戦前の映画統制の映画史的意味について」『映像学』41号(1990年)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/41/0/41_24/_pdf/-char/ja
赤上裕幸「『国民教化メディア』としての映画――映画法(1939年)の評価」『日本社会教育学会紀要』45巻、2009年。
[ix] 映画人への公職追放措置の具体的な法的根拠と個人指定の経緯については、現在公開されている資料の範囲では詳細を確認できない。一般に語られる「教材映画・戦意高揚映画への加担」という理由については、それが当時の公式文書に記載されたものか後年の解説かを区別できていない。
[x] コトバンク「公職追放

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