見出し画像

第2節 怪物は社会が作る——集団的フィクションとしての怪物

  怪物はなぜ、これほど多様なのか。
 前節で見た三つの怪物——オロチ、グレンデル、メデューサ——は、造形も機能も出自も異なっていた。認知構造の普遍性でこの多様性を説明することはできない。では、何が怪物の「形」と「機能」を決めるのか。

 ここで一冊の本を参照したい。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(2011年)だ 。
 ハラリはこの本の中で、人類がなぜ地球上で唯一、見知らぬ者どうしが大規模に協力できる動物になったのかを問う。チンパンジーは50頭程度の群れを超えて協力することができない。しかし人間は、面識のない何百万人もの人間と国家・貨幣・法律・宗教といった制度を共有し、協力して行動できる。なぜか。
 ハラリの答えは明快だ。人間だけが「想像上の秩序」を作り出し、それを集団で信じることができるからだ。貨幣に価値があるのは、みんながそれに価値があると信じているからに過ぎない。国家が存在するのは、みんながその境界線と権威を信じているからだ。神が力を持つのは、みんながその存在を信じているからだ。これらは客観的な事実ではなく、「集団的フィクション」——共同主観的な現実——である。
 そして怪物もまた、この「集団的フィクション」の一形態だ。
 怪物は実在しない。しかし、ある社会の構成員全員が「あの森には怪物がいる」と信じるとき、その怪物は社会的な現実として機能する。人々は森に近づかなくなり、夜間の行動を制限し、怪物を退治できる英雄を称え、怪物から守ってくれる権威に服従する。怪物への恐怖は、社会の秩序を維持するための強力な装置になる。
 ここから一つの命題が導かれる。怪物の「形」と「機能」は、その社会が何を「秩序」とし、何を「秩序の外」に置くかによって決まる、という命題だ。

 日本の「鬼」を例にとろう。
鬼はいつの時代も同じ存在ではなかった。奈良・平安期の鬼は、疫病や死をもたらす異界の存在だった 。陰陽道における「鬼門」という概念が示すように、鬼は空間的な秩序の外——北東の方角——から侵入してくるものとされた。しかし時代が下ると、鬼のイメージは変容する。中世の鬼は異民族や放逐された者の投影として現れ 、近世には「酒呑童子」のように、退治譚の中で巨大な怪物として描かれた 。江戸期になると、鬼は次第に滑稽な存在になっていく 。節分の豆まきで追い払われ、笑いの対象になった 。
 民俗学者の小松和彦は、この変容のプロセスを丹念に追いながら、妖怪とは「人間や文化を考えるための装置」だと論じた 。鬼は怖ろしい姿から親しみやすい姿へと変容したのではない。社会が変わり、社会が必要とする「秩序の外」のイメージが変わったことで、鬼の担う機能が変わったのだ。

 同じことは、世界中の怪物について言える。
 前節で触れた饕餮(とうてつ)を思い出してほしい。殷・周代の中国で饕餮は貪欲の怪物であり、人を食らう恐怖の存在だった。しかし同時に、青銅器に刻まれた饕餮の紋様は魔除けとして機能した。怪物は恐怖の対象であると同時に、別の恐怖を退ける守護者でもあった。この両義性は偶然ではない。殷・周の社会が「秩序」として重んじた祭祀と権威の文脈の中で、饕餮は「恐怖を喰らう存在」として位置づけられたのだ。

 あるいはインドのナーガを考えてみよう。蛇の神であるナーガは、日本のオロチとは根本から異なる扱いを受ける。ナーガは水・豊穣・知恵の守護者として崇拝され、寺院に祀られ、王権の正統性を保証する存在とされる。なぜ同じ「蛇」が、日本では退治される怪物になり、インドでは崇拝される神になるのか。それは「蛇」という生き物が本質的に異なるからではなく、それぞれの社会が蛇に与えた意味が異なるからだ。出雲の農耕社会における蛇(水害・洪水の象徴)と、インド亜大陸における蛇(雨季・恵みの水の象徴)とでは、社会的文脈が根本から違う。

 コーエンは1996年の論文「Monster Culture: Seven Theses」の中で、「怪物は文化の産物であり、怪物を読むことは文化を読むことだ」と論じた[i]。怪物はその社会の不安・欲望・禁忌・境界線を体現する。怪物を分析することで、その社会が何を恐れ、何を排除し、何を秩序の外に置いたかが見えてくる。

 ここまでの議論を一度整理しよう。
 世界中に怪物が存在するという事実は、怪物が人間の認知構造から必然的に生まれることを意味しない。それは、どの社会も「想像上の秩序」を必要とし、その秩序を維持・強化するための「集団的フィクション」を生み出してきたことを意味する。怪物は、その集団的フィクションの中でも最も強力な部類に属する——なぜなら怪物は、秩序の外にあるものを可視化し、秩序の内側にいる人々に「これを恐れよ」「これを排除せよ」というメッセージを送り続けるからだ。

 しかしここで、一つの疑問が生まれる。
 「怪物は社会が作る」とするなら、怪物を作るのは誰か。民衆の集合的な恐怖が怪物を生み出すのか、それとも権力者や語り部が意図的に怪物を「設計」するのか。答えはおそらく両方だ——しかし、その比重は時代と社会によって異なる。この問いは、神話における怪物の「作者」問題であり、後に本書が問うことになる特撮の「作者」問題——円谷英二個人の創造か、スタジオという集団的制作か——の原型でもある。
 そのことを念頭に置きながら、次節では比較という視点に戻る。怪物が社会の産物だとするなら、異なる社会が生み出した怪物を比較することで、何が見えてくるか。



参照文献・ウェブサイト
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』第6章、河出書房新社、2016年。
コジューリナ・エレーナ「鬼のイメージ変遷に関する歴史民俗学的考察」(2014年) KOARA(慶應機関リポジトリ)
板倉君枝「鬼とは何者か―差別、偏見、排除の日本史」、nippon.com、2023年5月24日公開。これは宗教史学者の小山聡子のインタビュー記事である。
香川雅信「妖怪文化論 現代に息づく江戸の妖怪文化」ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』53号(2016年)
国立国会図書館「本の万華鏡 第21回 大豆 第1章 節分と豆まき
小松和彦「妖怪から見る日本人の心」at home教授対談シリーズこだわりアカデミー
[i] Jeffrey Jerome Cohen, ”Monster Culture (Seven Theses)”, Monster Theory: Reading Culture, University of Minnesota Press, 1996, pp.3-25. 

いいなと思ったら応援しよう!