第6節 音楽は特撮を完成させるか――使い回しと過去楽曲の継承のあいだで
ここまで見てきた五人の作曲家の仕事には、それぞれ固有の背景がありながらも、繰り返し立ち現れる一つの共通項があった。伊福部昭のゴジラのテーマは満州の森林音楽と防衛隊の楽曲を経た転用の産物であり、冬木透の叙情性の少なからぬ部分はシューマンやシベリウスの大胆な引用によって支えられ、菊池俊輔ほどの多作家でさえ、限られた予算と収録スケジュールのなかで、専用に書き下ろされた楽曲だけでBGMのすべてを賄うことはできなかった。「場面ごとに新たに書き下ろされた音楽が、その場面固有の感情を作り出す」という素朴なイメージは、こうして本章の随所ですでに繰り返し揺らいできている。
この揺らぎを、テレビ特撮・アニメの制作実務という角度から改めて整理しておきたい。アニメ・特撮研究家の氷川竜介によれば、テレビアニメ初期には冨田勲の『ジャングル大帝』(1965年)のように、画面の展開に合わせて音楽を付ける「スコアリング」手法も用いられていた。しかし、限られた
予算と時間のなかで毎週の放送を成立させるため、次第に「溜め録り」と
呼ばれる手法へ移行していく。あらかじめ「A-1 喜び」「B-2 ドタバタ」「C-5 追跡」といった想定される用途を「メニュー」として設定し、それぞれに整理番号――「Mナンバー」――を振ってストックしておく。作曲家は、企画書やキャラクター設定、初期のフィルムを手がかりに、全話数に
対応できる楽曲群をあらかじめまとめて作曲するのである[i]。
この「Mナンバー」による運用は、アニメに限らず特撮の現場でも共有されていた。冬木透自身、『帰ってきたウルトラマン』で防衛隊MATのテーマとして書いた男声コーラス、通称「ワンダバ」について、これが「M-3」という整理番号を与えられた楽曲だったと証言している[ii]。
このMナンバーによる楽曲管理の実態を、より具体的に跡づけているのが、劇伴研究家・腹巻猫による調査である。腹巻猫は、渡辺岳夫(渡辺宙明とは別人の作曲家)の音楽事務所に遺されていた自筆の音楽リストとスコアを
直接照合し、『アルプスの少女ハイジ』(1974年)のBGMが、物語の舞台が切り替わるタイミングに合わせて、複数回に分けて一括録音されていた
ことを明らかにしている。ある楽曲のMナンバーは、後年のサウンドトラック商品で曲名が変更されようと変わることはなく、「曲名は変わってもMナンバーは変わらない」というのが、この分野の研究における暗黙の了解だという。さらに腹巻猫は、特定の場面でしか使われない楽曲(同記事のいう「エキストラ音楽」)については、わざわざ新規に録音するコストをかけるよりも、既存の音源をそのまま流用することがテレビアニメ・テレビドラマの現場では一般的だったと指摘している[iii]。
したがって、ある楽曲がサウンドトラック商品の曲名として「○○登場」「××との対決」といった具体的な場面名を与えられていたとしても、それは当該場面のために専用に作曲されたことを必ずしも意味しない。複数の場面に
流用されることを前提として一括録音された楽曲に、後から代表的な使用例の場面名が便宜的に付されている場合が多いのである。限られた予算と収録日数のなかで毎週の放送を成立させるためには、この方式こそが現実的な解だった。
こうした制作実態を踏まえると、一つの仮説が浮かび上がる。専用に書き
下ろされなかった楽曲であっても、特定の場面・特定のキャラクターと繰り返し結びつけられることで、観客のなかに音と映像を結ぶ条件反射的な連合記憶が形成される。そしてこの連合は、当の楽曲が一度限りの使用に終わらず、後年になって意図的に呼び戻されるたびに、強化・更新されていく。
近年の劇場版に見られる生オーケストラ収録・過去楽曲の意識的な継承という現象は、この連合強化のプロセスが実際に起きていることを跡づける、
格好の観察対象である。
2016年の庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』は、伊福部昭が東宝のSF特撮
映画のために作った音楽そのものと、鷺巣詩郎が自身の『新世紀エヴァンゲリオン』から引用したと見られる音楽とを組み合わせて構成されている。
音楽評論家の片山杜秀は、この組み合わせによって「ゴジラが現れれば
伊福部昭のあの音楽」という条件反射的な記憶の喚起が起こり、観客のなかで過去の記憶が増幅される効果を生んでいると指摘している[iv]。先に述べた連合強化の仮説に照らせば、これは伊福部の音楽が単に「懐かしい」からではなく、怪獣の出現という視覚的トリガーと繰り返し対応づけられてきた
ことそのものが、記憶を呼び覚ます装置として機能している例だと言える。
2023年の『ゴジラ-1.0』では、山崎貴監督のもとで佐藤直紀が新規に音楽を作曲しているが、その公式な作品紹介文自体が「伊福部昭の旋律も生かされた重厚なサウンド」と謳っており、サウンドトラック商品のクレジットにも、伊福部昭を作曲者、佐藤直紀を編曲者とする楽曲が複数含まれている[v]。新規に書き下ろされたスコアの内部に、旧作の旋律がそのまま組み込まれるという継承のかたちである。『シン・ゴジラ』が原盤の直接使用による連合強化だったのに対し、こちらは新規録音のなかに旧主題を織り込むことで、同じ連合を別の手段によって更新した例だと整理できる。
そして2022年、樋口真嗣監督・庵野秀明企画の『シン・ウルトラマン』では、第2節で見た宮内國郎が1966年に手がけた『ウルトラQ』『ウルトラマン』の原盤そのものと、鷺巣詩郎による新規楽曲とが、劇中で意図的に併存させられている。音楽ナタリーのコラムは、同作の前半部分がまるで「宮内國郎ベスト盤」であるかのような選曲になっていると評している[vi]。円谷
サウンドの礎を築いた作曲家自身の音そのものが、半世紀以上の時を超えて令和の映画のなかで鳴り続けている。ここでも原盤そのものの再使用という、シン・ゴジラと同じ手段が選ばれている点は偶然ではないだろう。
三つの事例に共通するのは、いずれも旧作の音楽を単に懐古的に流用したのではなく、視覚的な場面と結びつけて再提示することで、観客のなかにすでにある連合記憶を意図的に呼び覚ましているという構造である。これが、
第2節の末尾で投げかけた「音楽はなぜ、映像が消えた後も記憶の中で鳴り続けるのか」という問いへの、本章なりの答えである。専用に書き下ろされなかった楽曲が繰り返し使い回された結果として特定の場面と強く結びつき、その結びつきが数十年後の令和の作品によって再び呼び起こされる――音楽は、実写特撮技術そのものではないが、実写特撮技術が視覚的な虚構を構築するのと同じように、聴覚によって「現実にないものを現実のように
感じさせる」もう一つの虚構構築装置である。専用の書き下ろしという理想からは程遠い、使い回しという制作条件こそが、皮肉にもこの連合記憶を
形成する土壌になっていたのだとすれば、それは装置の価値を減じるものではなく、この装置がどのように働くかを説明する条件そのものだったことになる。
見えない作り手という主題は、これで一巡したことになる。第12章で見た
スーツアクターが、実写の身体を通して虚構を構築していたように、本章で見てきた作曲家たちは、音を通してもう一つの虚構を構築していた。両者に共通するのは、その仕事の担い手が、映像そのものからは見えない場所に
立っていたということである。特撮を書いた人、演出した人に光を当てる
次章では、この「見えない作り手」の系譜を、脚本・演出という、また別の次元に辿っていく。
[i] 氷川竜介「【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第15回 オリジナル音源への熱望感」アニメハック、2019年5月6日。
[ii] 「作家で聴く音楽」冬木透、JASRAC、前掲。冬木自身、『帰ってきたウルトラマン』の男声コーラス「ワンダバ」について、「M-3」という整理番号を与えられていたと証言している。
[iii] 腹巻猫「サントラ千夜一夜 第293回 100周年に向けて 〜アルプスの少女ハイジ メモリアル音楽集〜」WEBアニメスタイル、2024年11月19日。
[iv] 「音楽から"深読み"する『シン・ゴジラ』」日経ビジネス、2016年9月27日。音楽評論家・片山杜秀の発言による。
[v] 『ゴジラ-1.0 (Original Soundtrack)』作品紹介文、Apple Music。伊福部昭を作曲者、佐藤直紀を編曲者とするクレジットは、タワーレコード「オリジナル・サウンドトラック ゴジラ-1.0<完全限定盤>」商品ページでも確認できる。
[vi] 「この選曲は100点満点なのでは……!映画前半はまるで宮内國郎ベスト盤」『耳で楽しむ「シン・ウルトラマン」』、音楽ナタリーコラム、2022年5月31日。
