第8節 見えない作者の作家性
本章の出発点に立ち返ろう。第1節で私は、プロデューサーという職能を、企画・予算・スポンサー折衝・キャスティング・続投判断にまで及ぶ、作品の生死を握る仕事として定義した。そのうえで、これほどまでに広範な決定権を持つ職能でありながら、なぜファンダムの語りの中でその固有名が
ほとんど浮上しないのか、という問いを立てた。そして、もし作家主義を
この職能へ適用できるとすれば、一人のプロデューサーが10年、20年という単位で同じシリーズに関わり続けるとき、そこには個々の脚本家や監督の
交代を超えて持続する何かが宿るのではないか、という仮説を提示した。
本章を通じて見てきたプロデューサーたち――円谷一と円谷皐の経営継承、橋本洋二の調停、阿部征司と塚田英明の実行、武部直美の人選とモチーフの読み替え、大森敬仁の主題選定、そして富山省吾・土川勉・市川南それぞれの興行との向き合い方――は、この仮説をそれぞれ異なる形で試す事例だった。
いくつかの事例は、仮説を強く支持するように見える。武部直美が『オーズ/OOO』で「メダル」を「欲望」へと読み替えた着想も、市川南が庵野
秀明の構想を守り抜いた判断も、確かに固有の創造的署名と呼びうるものだった。だが同じ数だけ、仮説を掘り崩す事例もあった。阿部征司の仕事に「作風」を語ることはほとんど不可能であり、塚田英明のキャリアの後半も、他者のビジョンを実行可能な形に変換することに費やされていた。
この不均等さこそが、本章が最終的に確認しておくべき論点である。第1節で示した二つの留保――作家主義という枠組み自体が監督中心主義への異議として生まれたものであり、これをプロデューサーへ横滑りさせることは
新たな「見えない作者」を作るだけではないかという批判、そして真の作者は個々のプロデューサーではなくキャラクターとその使用権を媒介するシステムそのものではないかというメディアミックス論的な批判――は、依然として有効である。加えて、ここでもう一つの反論を検討しておく必要がある。すなわち、プロデューサーの「継承」とは、しばしば会社としての存続要請にすぎず、これを「作家性」と呼ぶことは概念を不当に拡張しているのではないか、という批判である。円谷皐がウルトラマンを版権ビジネスへと転換させた手腕は、たしかに経営上の才覚ではあっても、それを「作家性」と呼ぶのは、言葉の誤用ではないか。
この反論に、本章は部分的にしか応えられない。円谷皐の仕事、あるいは
富山省吾が四半世紀にわたってシリーズを守り続けた仕事を、脚本家や監督の作家性と同じ意味で「作家性」と呼ぶのは、たしかに無理がある。だが、武部直美の人選や市川南の擁護のように、経営判断と創造的判断の境界線
そのものが曖昧になる瞬間が、本章では確かに存在した。プロデューサーという職能の内部には、経営により近い仕事と、創造によりよく近い仕事とが、判然と分かれることなく混在している。仮説が成り立つかどうかは、
プロデューサーという一つの職能全体に対してではなく、個々の決断の一つひとつに対して、その都度問い直されるべき問いなのかもしれない。
もう一つ、脚本家中心主義の立場からの反論も検討しておこう。すなわち、プロデューサーの決定は、しばしば現場の脚本家や監督が持ち込む具体的な提案への「採用・却下」という反応にすぎず、真に「創造」しているのは
現場のクリエイターの方ではないか、という反論である。この反論にも一定の説得力がある。しかし橋本洋二が「怪獣使いと少年」の放送継続と引き
換えに上原正三・東條昭平の降板という代償を提案した判断も、大森敬仁がAIという主題を即座に採用した判断も、単なる「採用・却下」以上の重みを持っていた。採用するか却下するかという、一見受動的に見える決断そのものが、時に脚本家や監督の仕事の運命そのものを決定づけていたのである。
見えない作者という仮説は、したがって、全面的に肯定することも、全面的に退けることもできない。それは、プロデューサーという職能の中のどの
部分を見るかによって、姿を変える仮説である。
