第5節 黄金時代の終わり、そしてその後
前節までで見てきた製作上の偶発性や興行的判断の積み重ねは、最終的に、東宝の怪獣映画というジャンルそのものの土台を揺るがすことになる。本節では、この「黄金時代」と呼ばれてきた時期が、いつ、どのような形で
終わりを迎えたのかを確認する。
テレビという外部要因——映画の興行不振
1960年代後半、日本映画界全体が、テレビの普及という、怪獣映画という
ジャンルに固有ではない、より大きな構造変化に直面していた[i]。1969年(昭和44年)当時、東宝は邦画全体の斜陽化を受け[ii]、深刻な興行不振に陥っていた[iii]。
この苦境を打開するため、東宝が参考にしたのは、ライバル会社・東映の
興行手法だった。東映はこの時期、「東映まんがまつり」と称して、自社
制作の中編アニメ映画とテレビアニメの劇場版を組み合わせた、子供向けの休み期間興行で[iv]、成功を収めていた[v]。
怪獣総進撃——いったんの区切りと、その先
しかし、東宝がチャンピオンまつりという形式にたどり着くまでには、もう一つの重要な局面がある。
1968年公開の『怪獣総進撃』は、ゴジラ・ラドン・モスラをはじめとする11体の東宝怪獣を一堂に集めた作品で、東宝特撮怪獣映画20作記念と位置づけられていた[vi]。田中友幸は「やりきった感のある怪獣路線に一応の区切りをつけるために怪獣が大集結する作品の公開を決めた」[vii]。本作の観客動員数は258万人を記録し[viii]、この興行成績を受けて怪獣映画の継続が決まった。
翌1969年、チャンピオンまつりという新しい形での継続が始まることに
なる。つまり、「黄金時代の終焉」(1960年代半ば)と「チャンピオン
まつり化」(1969年〜)の間には、東宝が一度シリーズを締めくくろうとしながら、興行的な力によって引き戻されたという経緯が挟まっている。
テレビの普及という外部からの圧力と、興行成功という内部からの引力——この二つが、チャンピオンまつりという形式の誕生に、ともに働いていた。
東宝チャンピオンまつりの開始
東映まんがまつりに対抗する形で、東宝が1969年に開始したのが「東宝
チャンピオンまつり」である。プログラムは、ゴジラ映画(新作だけで
なく、旧作のリバイバル上映や短縮再編集版を含む)に、テレビアニメや
特撮ヒーロー番組のエピソードを組み合わせた、複数作品同時上映の形式を取った[ix]。
予算の縮小
チャンピオンまつり化以降、ゴジラ映画の製作環境は、それ以前とは大きく異なるものになった。
特技監督の中野昭慶は、節約を重ねながらも低予算に見えない画面作りを
心がけていたが、東宝映像社長を務めていた田中友幸はこれに「味をしめて」しまい、同じような低予算での製作を要望するようになっていったと、後年述懐している[x]。1971年の『ゴジラ対ヘドラ』では、直接費がほぼゼロだったとも証言されている[xi]。
この予算の縮小は、画面作りの細部にも表れている。『ゴジラ対ヘドラ』の特撮ミニチュアセットはコンパクトなものとなり、後半の富士の裾野での
戦い[xii]は、建物のない原野を舞台にするという、苦肉の策によるものだった。港のセットでは『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』のセットが、工場街のセットでは『妖星ゴラス』(1962年)のセットが、それぞれ流用
されている[xiii]。第2節で見た、岩田屋デパートのミニチュアを1/25スケールで作り込み、43日をかけて建て込んだという『空の大怪獣ラドン』の時代の製作環境とは、もはや別の産業段階に入っていたことになる。
円谷英二亡き後の現場
この時期の混乱には、もう一つの要因が重なっている。1970年、長らく特技監督を務めてきた円谷英二が死去した[xiv]。『ゴジラ対ヘドラ』は、円谷の没後に初めて作られたゴジラ映画である[xv]。
特技監督の中野昭慶によれば、円谷の不在によって、特殊技術課そのものを解体しようという動きすら、社内で進んでいたという[xvi]。東宝美術特殊
美術課長だった白﨑治郎は、円谷組の仲間たちが引き離されていくことに
なった、辛い時代だったと述懐している[xvii]。
第1節で見たように、円谷は技術の実行過程を自らの手の中に統御し、誰にもその過程を見せないという、独特の統治の仕方によって、特撮という工程を一つの独立した制作単位として成立させてきた人物だった。その円谷が
不在になったとき、彼が統御していた技術と人材の体制そのものが、組織的に解体の危機に直面したという事実は、第1節で確認した「体制」の脆さを、もう一度別の角度から照らし出している。技術の中核を一人の人物が
統御するという体制は、その人物が去ったとき、容易には引き継がれなかった。
「性格を変えてもらっては困る」——田中友幸の介入
この苦境の中で制作された『ゴジラ対ヘドラ』には、本章を締めくくるに
ふさわしい、もう一つの具体的な事件が記録されている。
監督デビュー作となった坂野義光は、ヘドラから逃げるゴジラに「放射熱線を放つ反動で後ろ向きに空を飛ぶ」という、シリーズ史上前例のない演出を盛り込もうとした。これは坂野と特撮班の中野昭慶が、「テレビ時代のスピード感」を意識して提案したアイデアだった[xviii]。
しかしプロデューサーの田中友幸は、この演出に強く反対していた。ところが撮影の途中、田中が体調不良で入院する。坂野はこの間に、東宝の専務だった馬場和夫をはじめとする他の役員から許可を取り付け、「ゴジラの飛行」シーン[xix]を撮影し、編集に組み込んでしまった[xx]。
退院した田中は、完成した試写を見て、このシーンに強く立腹した。
「ゴジラの性格を変えてもらっては困る」という言葉で坂野に難色を示し、しばらく口をきかなかったという[xxi]。坂野には続編の監督も予定されて
いたが、これは白紙となった[xxii]。後年、坂野は、田中が「あいつには二度と特撮映画を監督させない」と周囲に語っていたことを、人づてに聞いたと
証言している[xxiii]。
この一連の経緯は、本章が繰り返し確認してきた構造を、最も鮮明な形で
示している。田中友幸は、第1節で本多の演出を「おとなしすぎる」と評した人物であり、第4節で見たように、興行的な判断を優先して怪獣の「味方化」という方向性を推し進めてきた、実務的なプロデューサーだった。
しかしその田中が、ゴジラという存在そのものの「性格」——人類との関係において、ゴジラがどうふるまうべきかという核心——については、明確な一線を引いていた。ゴジラを敵から中立へ、中立から味方へと、段階的に
作り替えることは許容しても、ゴジラが「飛ぶ」という、これまでの
イメージから逸脱する演出だけは、田中にとって受け入れがたいものだった。
これは、興行的な実用主義に徹してきたように見える田中の中にも、ゴジラという存在に対する、侵すべきではない核が存在していたことを示して
いる。怪獣映画の「黄金時代」を体制として支えてきたプロデューサーは、その黄金時代が終わりを迎えようとしていたまさにそのとき、自らが作り
上げてきたキャラクターの「性格」を守ろうとして、現場の若い監督と衝突したのである。
閉じられた体制、開かれた問い
第1節で本書は、本多・円谷・田中・関沢という四者の配置が、互いの領分を侵さないという暗黙の境界線によって、十年以上にわたり機能し続けて
きたことを確認した。円谷の死、テレビの台頭、予算の縮小、そして田中と坂野の衝突——これらの出来事は、その境界線そのものが、もはや維持できなくなっていく過程として読むことができる。円谷という、技術の領分を
統御してきた人物が去り、田中は、かつて立ち入らなかったはずの演出の
領分にまで、自ら踏み込まざるを得なくなっていた。
本章は、東宝特撮の「黄金時代」を、円滑な協業の物語としてではなく、
内部に緊張を抱えながらも機能し続けた一つの体制として描いてきた。
ラドンの地方破壊、モスラの契約をめぐる混乱、キングギドラを生んだ黒澤明による遅延、そしてゴジラの段階的な「味方化」——これらはいずれも、思想的な設計と、製作上の偶然や実務的な判断が、分かちがたく絡み合った結果として生まれたものだった。
この体制が最終的にたどり着いたのは、テレビという新しい媒体が、映画という媒体そのものの足元を揺るがしていくという事態だった。次章では、
まさにこのテレビという場において、新しい怪獣たちが、東宝のミニチュア特撮とはまた異なる形で、自らの神話を作り上げていく過程を見ていく。
[i] 古田尚輝「劇映画“空白の6年”(その1)」成城文藝 (197)、100-75、2006年。
[ii] 邦画配給収入全体額は1960年をピークに減少を続け、1972年で底を打ち、1960年の水準まで回復するのは1977年のことであった。木村めぐみ・外木暁幸・小松怜史・大竹暁「日本における映画投資のフロー及びストックの試算」(New ESRI Working Paper No.38)、内閣府 経済社会総合研究所、2017年3月、16頁。
[iii] ウィキペディア「東宝チャンピオンまつり」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、「プロジェクト東宝チャンピオンまつり 祭り囃子は遠くに」電撃ホビーマガジン編集部 編『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』KADOKAWA(アスキー・メディアワークス)〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年、122–123頁。
[iv] 浅野俊和「<長編漫画映画>の誕生と終焉-「東映まんがまつり」の社会史-」『中部学院大学・中部学院大学短期大学部研究紀要』2004年 5号、57-65頁。
[v] ウィキペディア「東映まんがまつり」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、『クロニクル東映 1947―1991』 第2分冊、東映、1992年、49頁。
[vi] 講談社編『キャラクター大全 特撮全史―1950~60年代 ヒーロー大全』講談社、2017年、61頁。
[vii] ウィキペディア「怪獣総進撃」。
[viii] 同上。
[ix] 旧作のリバイバル上映や短縮再編集版を含む編成であったことについては、氷川竜介『空想映像文化論 怪獣ブームから『宇宙戦艦ヤマト』へ』KADOKAWA、2025年、131-133頁。ゴジラ映画がテレビアニメと組み合わされた複数作品同時上映の形式を取り、その結果「子供向け」と広く認識されていたことについては、鳥居大嗣「作られる『ゴジラ』の物語――1970年代~80年代の怪獣ファンダムの勃興と挫折を中心に」『文化/批評』2014年、第6号、112頁、大阪大学。
[x] ウィキペディア「東宝チャンピオンまつり」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、「東宝チャンピオンまつりスペシャルインタビュー 中野昭慶」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』98–99頁。
[xi] 同上。
[xii] 映画本編52分目以降。
[xiii] ウィキペディア「ゴジラ対ヘドラ」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、「東宝チャンピオンコラム チャンピオンまつりに見るプロップ流用」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』164頁。
[xiv] ウィキペディア「円谷英二」。
[xv] ウィキペディア「ゴジラ対ヘドラ」。
[xvi] ウィキペディア「東宝チャンピオンまつり」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、「東宝チャンピオンまつりスペシャルインタビュー 中野昭慶」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』96–97頁。
[xvii] ウィキペディア「東宝チャンピオンまつり」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃メイキング」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』80頁。
[xviii] ウィキペディア「ゴジラ対ヘドラ」。同記事の参考文献欄によれば、この記述の典拠は、「東宝特撮映画作品史 ゴジラ対ヘドラ」『東宝特撮映画全史』東宝出版事業室、1983年、358–359頁。
[xix] 映画本編1時間15~16分目。
[xx] 同上。
[xxi] ウィキペディア「ゴジラ対ヘドラ」。「東宝チャンピオンまつりスペシャルインタビュー 坂野義光」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』94–95頁。
[xxii] 同上。
[xxiii] 同上。
