第4節 ゴジラは倒されるべきだったのか——山根と尾形の対立、そして勝利なき結末
前節の終わりに残した問いを、もう一度確認しておきたい。代償的な物語であれば、芹沢博士は英雄として称えられ、生き残ってもよかったはずだ。
なぜ、この物語はそうならないのか。
この問いに答える前に、もう一段遡っておきたい。そもそも、ゴジラは
倒されるべきだったのか。第1章で、本書はこの問いを掲げていた。
ここまでの三つの読みは、いずれもこの問いに直接答えるものではなかった。ゴジラが何であるかを語ることと、それにどう応じるべきかを語ることは、別の作業だからだ。しかし『ゴジラ』という作品そのものは、この問いを劇中の対立として、すでに抱え込んでいた。
古生物学者の山根恭平博士は、一貫してゴジラを殺すことに反対する。山根は国会で、水爆の洗礼を受けてなお生き延びているゴジラの生命力こそ、
人類にとって貴重な研究資料であり、これを抹殺するのではなく研究すべきだと主張する[i]。東京が一度ゴジラに襲われたあとも、山根は「なぜみんな、ゴジラを研究しようとせず、殺そうとするんだ」と問い続ける[ii]。
これに対し、尾形秀人は山根に向かって、ゴジラとは今なお日本人の上に重くのしかかっている水爆そのものではないか、と反論する[iii]。
この対立は、単なる性格の異なる二人の口論ではない。前節までに見た二つの読みが、ここでそのまま、二人の人物の主張として分裂している。尾形の「水爆そのもの」という言葉は、第1節で見た核の身体化の読みを引き継いでいる。人間が作り出した苦しみであるなら、それは取り除かれるべきだ、という論理だ。山根の「貴重な生命力」という言葉は、第3節で見た恐竜という読みを引き継いでいる。人間が作り出したのではなく、文明以前から
存在する生命であるなら、それは研究され、理解されるべきだ、という論理だ。同じゴジラという一つの存在から、二つの異なる読みが、二つの異なる規範的な結論を導き出している。
物語は、結果として尾形の側に進む。ゴジラの脅威が増すにつれ、政府は
これを止める手段を求め、最終的に芹沢博士のオキシジェン・デストロイヤーが使われることになる。
しかし、この「進む」という言葉には、留保が必要だ。
芹沢は、山根の「研究すべきだ」という道は選ばなかった。一方、尾形が
求めた「兵器として使うべきだ」という道は、芹沢自身の手によって、確かに実行されている。ゴジラを倒したのは、まさにそのオキシジェン・デストロイヤーだった。
しかし芹沢が受け入れたのは、その道の全体ではない。彼が受け入れたのは、一度だけ、この一回限りの場面でそれを使うことだった。彼が拒んだのは、その先にあるはずのもの——この技術が反復可能な兵器として残り、
国家の手の中で運用され続けるという未来——だった。芹沢博士は、自らが発明したオキシジェン・デストロイヤーでゴジラを倒した後、尾形に別れの言葉を告げ、潜水服の命綱とエアパイプを自らのジャックナイフで切断し、海中で命を絶つ。これにより、オキシジェン・デストロイヤーの秘密は、誰にも知られることなく永遠に封印される[iv]。山根の道(研究)も、尾形の道の先にあったはずの未来(兵器としての継続的な運用)も、芹沢はどちらも閉ざした。彼が選んだのは、一度だけ技術を使い、その直後に、技術ごと
自分を消し去ることだった。
そして最後に言葉を発するのは、ゴジラを殺すことに最後まで反対していた山根だ。船上の人々がゴジラを倒せた歓喜に浮かぶ一方、山根博士は沈痛な表情でこう呟く——あのゴジラが最後の一匹とは思えない、もし水爆実験が続けて行われるなら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない、と[v]。
ゴジラは死んだ。尾形が望んだ通りの結末が訪れた。しかし、最後に発せられる言葉は勝利の言葉ではなく、山根の警告だ。殺すことに反対していた者が、殺された後の世界について語る権利を、物語から与えられている。この構成そのものが、「倒されるべきだった」という判断に、物語が完全には
同意していないことを示している。
もし前節で見た「代償」が、この映画の唯一の機能であったなら、芹沢の死は、それ自体が問題だったわけではないかもしれない。代償的な物語は、
悲劇的な英雄の死をしばしば物語の一部として取り込む。死そのものが称えられ、記憶されることによって、なお代償の機能を果たすことがあるからだ。
問題は、芹沢の死がその形を取っていないことにある。彼は功績を語られることを望まず、技術とともに沈黙の中へ消えることを選んだ。そして物語を締めくくるのは、芹沢への賛辞ではなく、山根の警告だった。代償的な物語であれば、英雄が死んでもなお、その死は何らかの形でカタルシスへと閉じられるはずだ。芹沢の死は、そのいずれの形にも閉じていない。
この「勝利なき結末」が、国境を越えたときに何が起きたかを見ておくことは、この問いへの一つの手がかりになる。
1956年、『ゴジラ』はアメリカで『Godzilla, King of the Monsters!』(邦題『怪獣王ゴジラ』)として公開された。日本公開版に96分あった尺は80分に短縮され、レイモンド・バー演じる架空のアメリカ人記者スティーブ・
マーティンを軸に再構成された[vi]。あるウェブ記事での集計によれば、1954年の日本版には核災害への言及が22箇所あったのに対し、アメリカ版にはそのうち4箇所しか残されていない[vii]。長崎への原爆投下、放射能を帯びたマグロ、第五福竜丸を思わせる漁船の被災といった具体的な言及の多くが失われた。
この改変の意図については、対立する見方がある。
ゴジラ研究者デイヴィッド・カラットは、クライテリオン版のオーディオコメンタリーで、これは政治的な検閲ではなく、二本立て上映に合わせた尺調整が主目的だったと論じている。カラットによれば、削除された場面は
いずれも主要人物が登場しない場面であり、物語の本筋には影響しない。
さらにカラットは、アメリカ側の新規場面を監督したテリー・モースが、その5年前に明確な反核映画『Unknown World』(1951年)を監督していたことを指摘し、彼に意図的な反核メッセージの除去を行う動機はなかったはずだと主張する[viii]。当時の制作側の証言もこれを補強する。プロデューサーの一人リチャード・ケイは、後年の取材で、政治には興味がなかった、売れる映画を作りたかっただけだ、物語自体は変えていない、アメリカ人の視点を与えただけだ、と述べている[ix]。
しかし、カラット自身が、この「政治的意図はなかった」という擁護のなかで、一つだけ明確に政治的な変更を認めている箇所がある。日本版で芹沢が恐れているのは、オキシジェン・デストロイヤーが「誰の手に渡るか」ではなく、それが誰の手に渡ろうと核軍拡競争を悪化させること自体だった——彼にとって「正しい手」はそもそも存在しない。一方、アメリカ版で芹沢が口にするのは、この兵器が「誤った手」に渡ることへの恐れである[x]。「正しい手は存在しない」という日本版の前提が、「誤った手に渡るかどうか」という冷戦期アメリカの語法に置き換えられている。この一点に関して、カラットも政治的な改変であったことを認めている。
さらに、結末そのものも書き換えられている。日本版で物語を締めくくるのは、ゴジラを殺すことに最後まで反対していた山根の警告だった。アメリカ版では、この警告そのものが削除されている。代わりに、スティーブ・マーティンの語りが物語を締める——脅威は去った。そして、一人の偉大な人物も去った。だが、世界はもう一度目覚め、生きていくことができる、と[xi]。
つまりアメリカ版が書き換えたのは、単に核への言及の数だけではない。
前節で確認した通り、代償が完成するには、芹沢の死が称えられる必要があった。日本版はその称賛を最後まで拒み、代わりに山根の終わらない警告を置いた。アメリカ版は、まさにその称賛を、物語の最後の言葉として芹沢に与えている。
つまり、尺調整のための機械的な編集だったという擁護論ですら、最終的には一つの政治的な書き換えを認めることになる。そしてその書き換えが起きた場所は、他のどこでもなく、芹沢の「勝利なき結末」をめぐる核心の部分だった。映画研究者ウィリアム・ツツイは、アメリカ版についてこう評している——物語の魅力ある怪獣そのものは生き残ったものの、原作が持っていた感情的な力、知的な深さ、社会的な意味、そして体感的な衝撃の多くは、アメリカの映画館に移される過程で失われた、と[xii]。
本多猪四郎自身は、この改変について事前に知らされていなかったとされる[xiii]。「勝利なき結末」を書いたのは本多たちだったが、それを国境の外でどう書き換えるかについて、本多に発言権はなかった。
前節の終わりに残した問い——なぜこの物語は代償をまっすぐ受け取らせてくれないのか——という問いへの答えも、ここにある。代償が完成するには、芹沢の死が称えられる必要があった。しかし物語は、その死を称える
ことをせず、代わりに山根の警告を置いた。「ゴジラは倒されるべきか」という問いが未決のまま残ることと、代償をまっすぐ受け取れないこと——この二つは、別々の問題ではない。どちらも、この物語が最後まで、山根の声も尾形の声も、完全には支持しなかったという、同じ一つの事実の、二つの現れだったのである。
ここまでを整理すると、一つのことが見えてくる。
「ゴジラは倒されるべきか」という問いに、『ゴジラ』という作品は答えを出していない。むしろ、山根と尾形という二つの声を最後まで対立させた
まま、結末そのものに苦さを残すことで、その問いを未決のまま観客に手渡している。倒すという行為は実行されたが、それは祝福される行為としては描かれなかった。そしてこの作品が国境を越えるとき、最初に書き換えられたのも、まさにこの未決性の部分だった。日本版が拒んだ称賛を、アメリカ版は芹沢に与え、日本版が開いたままにしておいた警告を、アメリカ版は閉じた。
一つの作品が、送り手の意図とは別に、受け手によって異なる形に書き換えられていく。
次節では、この「書き換えられ続ける」という性質そのものに向き合う。
[i] 山根博士の研究優先論について。映画本編34分目。
[ii] 映画本編52分目。
[iii] 尾形秀人の主張について。映画本編52分目。
[iv] 映画本編1時間32分目。
[v] ゴジラのラストシーンについて。映画本編1時間35分目。
[vi] TV Tropes「Godzilla: King of the Monsters! (1956) (Film)」
[vii] Erin Brookins, "Godzilla King of Monsters - How Editing Out the Atomic Bomb Doomed the 1956 American Cut," Collider, Nov 19, 2023.
[viii] Don Kaye, "Why Godzilla, King of the Monsters! Is an Important Cinematic Milestone," Reactor, April 22, 2026.
[ix] Mike Bogue, Apocalypse Then!でのリチャード・ケイの発言。Ryan Scott, "What Is The Original 1956 Godzilla: King Of The Monsters? The Kaiju Classic, Explained," SlashFilm, DEC. 14, 2025.に引用。
[x] Kaye, op. cit.
[xi] IMDb, "Godzilla: King of the Monsters! (1956) - Plot"
日本版とアメリカ版の結末の対比については、William M. Tsutsui, "Teaching Gojira," Education About Asia, Vol. 29, No. 1 (Spring 2026) の授業用設問でも、「日本版は核実験の継続への厳粛な警告で終わるが、アメリカ版は明るい楽観の調子で締めくくられる」と明記されている。
[xii] William Tsutsui の評。Wikipedia「Godzilla, King of the Monsters!」に引用。
[xiii] 本多猪四郎が改変を知らされていなかった件について。Finnlay Dall, "Godzilla, King of the Monsters! (1956)," Finn Writes Movies, Nov 27, 2024.
