第1節 特撮は誰が作るのか――集団制作という前提
小説や漫画には作家がいる。江戸川乱歩と言えば『怪人二十面相』を思い浮かべ、水木しげると言えば『ゲゲゲの鬼太郎』を思い浮かべる。作品と作者を一対一で結びつけるこの発想は、近代文学・近代漫画がごく自然に依拠してきた前提である。
特撮は、この前提にうまく当てはまらない。1954年の『ゴジラ』1本を例にとってみても、クレジットに名を連ねる者は膨大な数にのぼる。監督・本多猪四郎、原作・香山滋、脚本・村田武雄と本多猪四郎、撮影・玉井正夫、
美術監督・北猛夫、美術・中古智、録音・下永尚、照明・石井長四郎、
音楽・伊福部昭、そして特殊技術・円谷英二のもとに向山宏・渡辺明・岸田九一郎という複数の技師が名を連ねる[i]。原作者と脚本家がまず別人であり、その脚本家も単独ではなく監督との共同執筆であり、特殊技術という一部門だけでも複数の技師が分業している。単独の「作者」を一人指させと
言われて、指させる人物は一人もいない。
にもかかわらず、私たちは『ゴジラ』を語るとき、そこに一貫した思想を
感じ取る。反戦と鎮魂、科学技術への両義的な畏怖、人間の傲慢さへの警鐘――これらは、香山滋の原作にも、村田・本多の脚本にも、円谷の特殊技術にも、伊福部の音楽にも、それぞれの仕方で滲み出ている。誰か一人が設計図を描き、他の全員がそれに従ったわけではない。それぞれが自分の持ち場で仕事をした結果として、一つの首尾一貫した世界観が事後的に立ち上がってきたように見える。
この種のパラドックスに、映画批評はすでに一つの解答を用意していた。1950年代半ば、フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』でフランソワ・トリュフォーらが唱えた「作家主義(politique des auteurs)」は、映画という本質的に集団的な製作物であっても、その文体を創造し統御する監督こそを「作家」として捉えるべきだと主張した[ii]。ヒッチコックやハワード・ホークスのように、大量の娯楽作品を量産していた「職人監督」たちの仕事の中にも、繰り返し現れる主題と文体――すなわち作家性――を見出せるという発想である。この理論は後年、俳優・脚本・技術スタッフの貢献を軽視しがちだという批判[iii]や、映画の社会的・産業的背景を見落としがちだという批判にもさらされてきたが、集団製作物の中に個人の作家性を見出そうとする分析の枠組みそのものは、本章が特撮に対して試みようとしていることと、問題意識の根を同じくしている。
もっとも、特撮への適用には、映画一本の作家主義よりもさらに込み入った事情がある。テレビ特撮は長期シリーズであり、一人の監督が全話を演出することはまずない。数十話にわたって複数の脚本家、複数の監督、複数の特技監督が入れ替わり立ち替わり参加し、それでもなお「ウルトラマンらしさ」「仮面ライダーらしさ」という何かが保たれ続ける。集団製作という
前提は、映画以上に、テレビ特撮においてこそ先鋭化した形で立ち現れる
問いなのである。
ここで、本章の進め方について一つ確認しておきたい。以下の各節では、
脚本家と監督たちを個別に取り上げ、それぞれの仕事に「作家性」と呼び
うるものを見出していく。
ただし、この作業には一つの危険が伴う。ある人物の仕事に一貫した個性を見出そうとする語りは、しばしば後年のファンや評論家による遡及的な意味づけ――「あの人が関わっていたのだから、この部分もきっとその人の色だろう」という、いわば結果から逆算された物語――に陥りやすい。この危険を避けるため、本章では、本人が自らの作家性について直接語った証言が
確認できる場合と、そうした証言が確認できないまま作風から推測するほかない場合とを、できるかぎり区別して記述する方針を取る。前者については確定事実に近い強度で、後者についてはあくまで根拠ある推論、あるいは
仮説として扱う。
ゴジラを作ったのは誰か。ウルトラマンを作ったのは誰か。仮面ライダーを作ったのは誰か。この問いに単純な答えはない。しかし、答えが単純でないという事実そのものから出発することによってしか、特撮という集団的創造物の中に宿る作家性の正体には近づけない。次節では、まず「神話創造者」と呼ぶべき二人の脚本家――金城哲夫と伊上勝――から見ていく。
[i] 「ゴジラ(1954):作品情報・キャスト・あらすじ」映画.com。クレジット詳細は「ゴジラ(1954)」allcinemaでも確認できる。
[ii] 「作家主義」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク版。作家主義の起源、対象とされた監督群、および後年寄せられた批判のうち映画の社会的・技術的・産業的背景や歴史性の欠如への指摘については同項目による。
[iii] Jim Hillier and Barry Keith Grant, "Auteur Theory and Authorship," Schirmer Encyclopedia of Film, Encyclopedia.com. 同項目は、批評家ポーリン・ケイルが著書『The Citizen Kane Book』(1974年)で脚本家ハーマン・マンキーウィッツこそ『市民ケーン』の真の作者だと論じたこと、リチャード・コーリスが著書『Talking Pictures』(1975年)で脚本家の果たす役割の重要性を指摘したこと、英『Movie』誌のイアン・キャメロンが監督以外の撮影監督・作曲家・プロデューサー・主演俳優が実質的な「作者」となりうる例を論じたことを紹介しており、俳優・脚本・技術スタッフの貢献を軽視しがちだという作家主義批判の典拠とする。
