第4節 怪獣が味方になるとき
前節で見たように、『三大怪獣 地球最大の決戦』において、ゴジラ・ラドン・モスラの三大怪獣は、初めて、互いに敵対するのではなく、共通の脅威であるキングギドラに対抗するために協調する。この共闘は、シリーズの
方向性に一つの転換をもたらした。それまで人類にとって脅威であり続けてきたゴジラが、この作品以降、徐々に人類の側に立つ存在として描かれるようになっていく。
本節では、この転換がどのように進行したのか、そして、この転換を推し
進めた人物と、その転換に内心で抵抗していたと伝えられる人物——円谷
英二自身——との間にあった緊張を見ていく。
ゴジラの「ヒーロー」への段階的な転換
ゴジラの「味方化」は、一夜にして起きた変化ではなかった。
『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)でゴジラが見せたのは、あくまでキングギドラという、より強大な脅威に対する一時的な共闘だった。続く『怪獣大戦争』(1965年)では、ゴジラとラドンは、X星人による地球侵略の道具として利用され、誘導電波を断ち切られた後に、キングギドラを撃退して地球を守る[i]。この作品で、ゴジラが当時流行していた赤塚不二夫の漫画作品『おそ松くん』中のギャグ「シェー」のポーズを取る場面が挿入されており、これはコミカルな演出だった[ii]。
続く『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)では、舞台が
南海の孤島に移され、ゴジラは、原水爆を製造する秘密結社と戦う主人公
たちを結果的に救う存在として描かれる[iii]。つまり、この作品でのゴジラの立ち位置は、単純な「味方」ではない。また、従来のような都市破壊の描写も存在しない[iv]。
つまり、ゴジラの「味方化」は、『三大怪獣 地球最大の決戦』から『南海の大決闘』に至る過程で、「人類の脅威」から一足飛びに「ヒーロー」へと切り替わったのではなく、徐々に進行した変化だったことになる。
円谷の内心——複数の証言が示すもの
この段階的な転換の背後で、技術の中核を担っていた円谷英二自身は、この方向性についてどう考えていたのか。
第1節で確認したように、円谷は技術の実行過程を自らの手の中に統御する人物だった。怪獣の方向性そのものについても、複数の証言が、円谷の内心の抵抗を伝えている。
特殊美術の入江義夫は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と語っていたと証言している[v]。撮影助手だった森喜弘もまた、円谷は怪獣映画を『ゴジラ』一本で終えるつもりだったと述べている[vi]。
これらの証言が事実であるなら、円谷は、自らが技術的に確立し、東宝の
看板シリーズへと育て上げた怪獣映画というジャンルそのものに、当人としては距離を置きたいと考えていたことになる。第1節で見た、本多猪四郎が会社の意向に従順な「職人」ではなく誠実な作り手だったという切通理作の再評価と、この円谷の証言を並べると、興味深い対照が浮かび上がる。本多は怪獣映画というジャンルに誠実に向き合っていたとされる一方、その特撮を技術的に支えていた円谷自身は、同じジャンルの量産化に、内心では抵抗を感じていたとされている。
マンネリ化への対応——抵抗と適応の同時進行
しかし、この円谷の内心の抵抗は、現場での行動と完全に一致していたわけではない。
円谷は、怪獣映画シリーズの「マンネリ化」を強く恐れており、その対策として、興行的な要請に応える試行錯誤を、自ら積極的に行っていた。『怪獣大戦争』で、当時の子供たちに人気だった「シェー」のポーズをゴジラにさせる演出も、こうした円谷自身の判断の延長線上にあった[vii]。
ここに、本節の核心となる緊張がある。円谷は、怪獣映画というジャンル
そのものの継続には内心で抵抗を感じていたと伝えられながら、同時に、
そのジャンルを延命させるための具体的な工夫——観客を飽きさせないための新しい趣向——には、自ら手を尽くしていた。この二つは、矛盾しているように見えて、必ずしも矛盾しない。第1節で確認したように、円谷は技術の実行過程において強い統御権を持つ人物だった。ジャンルの大きな方向性について内心の留保を抱きながらも、ひとたびその方向で作ることが決まれば、技術者として最善を尽くすという態度は、第1節で見た、本多が会社の意向に従いながらも誠実に怪獣映画に向き合っていたという姿勢とも、響き合うところがある。
興行的判断としての「味方化」——田中友幸の側から
この転換を推進した側、すなわちプロデューサーの田中友幸の側の意図については、後年彼が当時のことを振り返って、1965年以降はマンネリを避けるために、新奇なアイデアで行くことを考えていたと述べたことは確認できる[viii]。舞台を南海の孤島に限定し、都市破壊という要素を切り離すという『南海の大決闘』以降の方向性が、続く『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)にも引き継がれたことを踏まえれば[ix]、これが単発の実験ではなく、一定期間にわたって維持された制作方針だったことが確認できる。
第1節で見たように、田中は、本多の演出を「おとなしすぎる」と評しながらも、興行的な判断を優先して体制を維持し続ける人物だった。怪獣を人間の「味方」へと徐々に作り替えていく方向性もまた、観客の支持——とりわけ、シリーズの主要な観客層になりつつあった子供たち——に応える、同種の実用的判断の延長線上にあったと見ることができる。
次節への問い——黄金時代の終わりへ
本節で見た転換——ゴジラがやがて「人類の味方」へと変わっていく過程——は、東宝怪獣映画の観客層が、しだいに子供たちへと重心を移していったことの反映でもあった。円谷英二自身が抱いていたとされる内心の抵抗とは裏腹に、この方向転換は、シリーズを延命させる現実的な選択として、
その後も続いていく。
しかし、この延命の先に待っていたのは、決して安定した繁栄ではなかった。次節では、この章で確認してきた「黄金時代」と呼ばれる時期が、
いつ、どのような形で終わりを迎えたのか——そして、その終わりが、本章でこれまで見てきたような、製作上の偶発性や興行的判断の積み重ねの、
最終的な帰結としてどう位置づけられるのかを検討する。
[i] 「怪獣大戦争」映画.com。
[ii] 映画本編50分目。
[iii] 「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」映画.com。なお、本作の監督は福田純である。
[iv] 同上。
[v] ウィキペディア「円谷英二」。なお、同記事の参考文献欄によれば、この証言の典拠は『モスラ映画大全 2011』(洋泉社、2011年)24–29頁、聞き手・中村哲 友井健人「インタビュー 特殊美術 入江義夫」。
[vi] ウィキペディア「円谷英二」。なお、同記事の参考文献欄によれば、この証言の典拠は東宝ゴジラ会『特撮 円谷組 ゴジラと東宝特撮にかけた青春』(洋泉社、2010年)218–237頁、「第二章 円谷組スタッフインタビュー INTERVIEW16 中野昭慶 森喜弘 中尾成雄 鈴木桂子 長尾誠一 徳政フミ子」。
[vii] ウィキペディア「円谷英二」。
[viii] 『東宝怪獣グラフィティー』近代映画社、1991年、45頁。
[ix] ウィキペディア「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」。「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」映画.com。なお、本作の監督は福田純であり、特技監督は有川貞昌である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E7%8D%A3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%B1%BA%E6%88%A6_%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%81%AF%E5%AD%90
