見出し画像

第5節 映画という技術は中立ではない——次章への接続

映画は嘘をつく技術として生まれた。
しかし映画が「嘘をつく」ためには、まず「現実を記録する」という性質がなければならない。第1節で確認したこの逆説は、映画という技術の二重性を示している。カメラは現実を記録する装置であると同時に、現実を作り替える装置でもある。この二重性は、映画が誕生した瞬間から、その技術の中に刻み込まれていた。
そしてこの二重性は、映画を「中立な技術」にしない。
 
前章で論じたように、幻燈機は「見せること」によって観客を統御する装置として機能した。博覧会の幻燈映像は文明の進歩を可視化し、衛生教育の幻燈は人々の身体管理を促した。「見せる技術」は、何を見せるかを決める者の意図を、見る者の知覚に直接届ける装置だ。

映画はこの性質をより強力な形で引き継いだ。
リュミエール兄弟が記録した映像の中には、植民地の風景を「文明化された視線」から捉えたものが含まれていた。「現実の記録」として提示される映像が、特定の視点から世界を切り取り、特定の秩序を「自然なもの」として観客に届ける——「嘘をつく映画」ではなく「記録する映画」のほうが、時として政治的に強力な道具となりうる。なぜなら「これは現実だ」という映像の実在性の感覚は、その映像が担う意味をも「現実のもの」として届けるからだ。
「映画は嘘をつく技術か、記録する技術か」という問いに対する答えは、どちらでもあり、それゆえどちらでもない、というものだ。映画という技術は、使う者の意図と、それを取り巻く社会的文脈の中で、常に何らかの力として機能する。技術は中立ではない。
 
この認識は、次章で論じることの前提となる。
円谷英二が特撮技術を磨いた時代は、日本が十五年戦争へと突き進んでいた時代と重なる。映画という技術が「中立ではない」という事実は、円谷英二にとって抽象的な問題ではなかった。彼は戦意高揚映画の特撮を手がけ、その技術を戦争という文脈の中で使った。そして敗戦後、GHQの検閲という別の「使う者の意図」の中に置かれた。
技術は引き継がれる。しかし技術を取り巻く文脈は変わる。
メリエスが発明し、オブライエンが完成させ、円谷英二が受け継いだ「嘘をつく技術」は、廃墟となった日本の撮影所の中で、新しい文脈と出会うことになる。

本章で辿ってきた道筋を、一度振り返っておきたい。
リュミエール兄弟とメリエスは、しばしば対立項として語られる。現実を記録した者と、映像で嘘をついた者。しかしガニングが示したように、両者は同じ一つの欲望から出発していた。観客を驚かせること——その欲望の中に、映画という技術の二つの可能性が最初から共存していた。

メリエスはストップトリック、多重露光、ミニチュア撮影という技術を発明し、「映像で嘘をつく」ことの可能性を切り開いた。ウィリス・オブライエンはストップモーション・アニメーションによって「生命の錯覚」を作り出し、スクリーンの上に怪物を出現させた。そして1933年、その怪物は『キング・コング』という作品の中で完成形に達した。大恐慌期のアメリカ社会が怪物に投影したものは何だったのか——その問いは、特定の答えに収斂しない。しかし怪物が社会の欲望と恐怖を一身に背負う存在であるという事実は、コングにおいて初めて映画の中で鮮明な形をとった。

この技術の系譜は太平洋を渡り、円谷英二の目に届いた。円谷はすでに、
牧野省三の忍術映画が切り開いた国内のトリック映画の系譜を身体で知っていた。「見立て」の美学と「知っているが驚く」という観客性を育てた日本固有の文化的土壌の上で、西洋の技術と国内の技術が交差した。
そしてその交差点に立っていた円谷英二は、映画という技術が「中立ではない」という事実を、抽象的な問題としてではなく、生きた現実として体験することになる。
 
最後に、一つの問いを立てて本章を閉じたい。
メリエスはなぜ、「嘘をつく技術」に魅了されたのか。
答えは単純に見える。奇術師だったから。観客を驚かせることが職業だったから。しかしもう少し深く問うと、別の答えが浮かび上がる。メリエスが
映画に見たのは、舞台の上では不可能だったことを可能にする装置だった。舞台では、仕掛けがある。ワイヤーがある。舞台の端がある。しかしカメラの前では——そのレンズを通じた映像の中では——不可能は存在しない。
人間は消え、月へのロケットは飛び、怪物は都市を踏みにじる。そしてその嘘は、現実の感覚を持って観客に届く。

メリエスが直感したのは、この逆説だったのではないか。
カメラは現実を記録するからこそ、その映像を通じた嘘は現実の感覚を
持つ。舞台の奇術が「これは嘘だ、しかし見事だ」という体験をもたらすとすれば、映画の嘘は「これは現実だ」という体験をもたらす。奇術師にとって、それは根本的な飛躍だった。
この飛躍の意味を、円谷英二は戦争と敗戦という極限状況の中で問い直す
ことになる。
廃墟の上の撮影所で、彼は何を作ろうとしたのか。次章では、その問いへと向かう。

いいなと思ったら応援しよう!