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第3節 破壊を見る快楽——カタルシスという説明とその限界

ここまでの二節で、ミニチュアという技術そのものの正体を見てきた。壊れやすく作られた素材、カメラのためだけに特化された精巧さ——これらは、観客がその噓を「噓と気づかせない」ための技術だった。強遠近法も、裏側のない建物も、種を明かされれば誰でも理解できる程度の単純な仕掛けで
ありながら、それが効果的に機能するのは、観客がカメラの視点に同意しているからだ、と第2節は結論づけた。

しかし、この結論は、まだ一つのことを説明していない。なぜ観客は、その噓が壊れることに、本物の破壊と同じ重さを感じるのか。

ここで、技術の精巧さが何のために働いていたかを、もう一度確認しておく必要がある。強遠近法も、カメラに映る面だけを作り込むという経済性も、ミニチュアを「何でもない模型」として成立させるためのものではなかった。それらが目指していたのは、観客に「これは東京だ」「これは銀座だ」と、特定の、意味を持つ場所として認識させることだった。ミニチュアの
精巧さは、抽象的な造形物を壊すための精巧さではなく、観客にとって具体的な意味を持つ都市——近代日本の、西洋に由来する文明を体現した都市——を、壊すために存在する精巧さだったことになる。

だとすれば、観客が破壊に感じる重さの正体は、技術そのものの中にはない。技術が何を成立させているか、つまり、壊される対象が観客にとって何を意味しているかという問いに、答えは移ることになる。

最も直接的な答えは、おそらく「カタルシス」という言葉だろう。抑圧された日常から逃れ、巨大な力が都市を蹂躙する様子に、束の間の解放感を得る——この説明は、直感的にもわかりやすく、怪獣映画について語られる際に繰り返し使われてきた語彙でもある。たとえば2016年の『シン・ゴジラ』公開時には、音楽評論家の片山杜秀が、ゴジラによる都市破壊の場面に「圧倒的なカタルシスを感じました」と述べている[i]。2019年公開の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の劇場公開時評でも、怪獣による都市破壊の完成度の高さが、まさに「カタルシスに満ちている」と評されている[ii]。

ただし、ここで言う「カタルシス」が、実際には一つの感情を指しているとは限らない。抑圧からの単純な解放感と、もっと入り組んだ、矛盾を抱えたままの解放感とは、同じ言葉で語られながらも、性質の異なる感情かもしれない。この区別を、初代『ゴジラ』にそのまま当てはめてよいのかどうかは、慎重に検討する必要がある。

大阪市立大学の田畑雅英は、2005年に発表した論文「なぜゴジラは都市を
破壊するのか」で、日本の怪獣映画における都市破壊を、半世紀にわたる
文化的変遷の中に位置づけている。田畑によれば、ゴジラの都市破壊には、まず表層の意味として、大戦時の空襲と原爆投下の記憶との濃厚な結びつきがある[iii]。ゴジラが上陸した翌日の救護所の場面——原作者・香山滋の小説『ゴジラ(東京編)』では、負傷者でホールや廊下が埋まり、ガイガーカウンターが不気味な音を立てる様子が描かれている——は、空襲や原爆投下後の病院の様子そのものであり、田畑はこれをドキュメンタリーに近い印象を与える場面として位置づけている[iv]。

ただし、田畑が論じる中心は、この空襲のアナロジーそのものではない。
田畑はこれを表層の意味と位置づけ、より深い層には、近代西洋文明を借り物として受け入れてきた日本人の、その文明への違和感と、自らもまたその文明に依拠して生きているという意識との間の、矛盾した感情があると論じている。その文明に依存しながら生きていることを認めつつ、同時にそれへの違和感も拭えない——こうした、相反する感情が一人の人間の中に同時に存在する状態を、心理学では「アンビヴァレント」と呼ぶ。田畑はこの言葉を用いて、日本人が近代西洋文明に対して抱いてきた感情を説明している[v]。日本の怪獣の多くが恐竜を原型とするのは、すでに絶滅した太古の生物というイメージに、西洋化によって失われた日本の伝統を重ね合わせているからだと、田畑は解釈する[vi]。

ここで重要なのは、田畑が、初期の怪獣映画と後年の怪獣映画とを、明確に区別している点である。
 田畑は、『ゴジラ』とそれに続く『空の大怪獣ラドン』(1956年)、
『大怪獣バラン』(1958年)といった初期作品のエンディングに注目する。これらの作品では、怪獣の最期を見届けた登場人物たちが、声もなく、ただ呆然とその終焉の方向を見つめ続ける。怪獣の暴威から解放された喜びは、そこにはほとんど見て取れない、と田畑は指摘する[vii]。怪獣を倒す武器が、水中酸素破壊剤や「特殊火薬」といった、現実には存在しない架空の
発明であることも、田畑にとっては示唆的である——これらは物語を表面上終わらせるための約束事であり、提示された問題が映画の終わりとともに解決されたわけではないことを暗示している[viii]。

ところが、田畑によれば、この構造は時間とともに変化していく。戦争や
空襲の記憶が薄れ、経済成長によって生活が豊かになるにつれ、怪獣の都市破壊は、単純なカタルシスをもたらすものという性格が強まってゆく、と
田畑は論じる[ix]。田畑がこの転換点として明確に指摘するのが、『キング
コング対ゴジラ』(1962年)である。アメリカ製の怪獣キングコングと、
日本のゴジラとが対決するこの作品によって、それまで怪獣映画に内在していた「西洋文明への違和感」という図式が、誰の目にも明らかな形で前景化されることになった、と田畑は述べている[x]。さらに『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)に登場するキングギドラは、神社の大鳥居を明確に狙って破壊する場面を持つなど、外部からの文化的侵略者としての性格を、それ以前の怪獣よりもはっきりと体現していると田畑は論じる[xi]。

この区別は、本書にとって重要な意味を持つ。もし「破壊を見るカタルシス」という説明を、怪獣映画全体に無条件で当てはめてしまうなら、それは田畑が指摘した半世紀にわたる変化を、すべて均してしまうことになる。
田畑の論旨に従うなら、1954年の『ゴジラ』が観客に与えていた感情は、
単純な解放感ではなく、むしろ「相矛盾する感情を交錯させながら」怪獣を見つめる、二律背反的な複雑さに近いものだったはずである。「カタルシス」という性格は、田畑の年表に従えば、戦争の記憶が薄れるとともに、1960年代以降、徐々に強まっていったものである。田畑自身の言葉に即して言えば、これは「単純なカタルシスをもたらすものという性格が強まって
ゆく」という漸進的な変化であって、初期作品にはカタルシスが皆無で後年だけに突然現れるという、断絶的な切り替わりとして読むべきではない。

とはいえ、この区別は、初代『ゴジラ』における破壊の快楽を、完全に否定するものでもない。田畑自身も、ゴジラが自ら核実験の被害者でもあったという両面性——自らも依拠する物質文明への批判であると同時に、自己の内にある何かを代弁し、それを破壊という禁じられた行為によって表現して
くれる存在でもあったという両面性——を指摘している[xii]。つまり初代『ゴジラ』においてもなお、観客は怪獣の破壊する力に、ある種の解放を
感じていた可能性がある。ただし、その解放は、後年の単純な祝祭的興奮とは異なる、もっとアンビヴァレントな感情として経験されていた、という
ことになる。

もう一つ、留保しておくべき点がある。田畑が引用する、アメリカの都市
文化研究家ピーター・ミュソッフの読みである。ミュソッフは、ゴジラを
日本文化の伝統の守護者、キングコングをアメリカの文化侵略の象徴と
捉え、両者の対立を軸に『キングコング対ゴジラ』を解釈した[xiii]。

しかし田畑自身は、この図式化に留保を付けている——キングコングはもともと、現代都市そのものへのアンチテーゼとして造形された怪獣であり、
それをそのままアメリカ文化の十全な象徴と見ることには疑問が残る、と
田畑は述べている[xiv]。第5章で本書が複数の読みを決定不能なまま拮抗させたのと同様、ここでもまた、単一の図式に飛びつくことへの慎重さが必要である。

ここまでの整理から、一つの暫定的な結論が導かれる。本章の冒頭で立てた問い——観客はなぜ、噓だとわかっている街が壊れることに、本物の破壊と同じ重さを感じるのか——に対して、「カタルシス」という答えは、それ
単独では時代を超えた説明にはならない。むしろ、その答えの強度は、作品が作られた時代によって変化する。1954年の観客が感じていたものと、1962年以降の観客が感じていたものは、同じ「破壊の快楽」という言葉で
括られながらも、その内実は徐々に変化していった可能性が高い。

だとすれば、もう一段深く問わなければならない。1954年の『ゴジラ』に
おいて、観客が「相矛盾する感情」を抱きながらも、なお怪獣の破壊する街を見つめ続けたのは、なぜなのか。田畑の議論に従うなら、その答えは、
空襲の記憶という表層をさらに掘り下げた先にある——近代西洋文明を、
借り物として受け入れながら生きてきた日本人の、その文明そのものへの
アンビヴァレンスである。第4節では、この深層の感情が、銀座や東京という具体的な都市の形を通じて、どのように表現されていたのかを検討する。



[i] 片山杜秀「音楽から"深読み"する『シン・ゴジラ』」日経ビジネス、2016年9月26日。 
[ii] 「『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』レビュー カタルシスと終末感に満ちた怪獣バトル」シネマトゥデイ、2019年。 
[iii] 田畑雅英「なぜゴジラは都市を破壊するのか」『都市文化研究』第5号(大阪市立大学大学院文学研究科:都市文化研究センター、2005年3月)17頁。
https://ocu-omu.repo.nii.ac.jp/records/2017817
[iv] 同上、18頁。
[v] 同上、16頁、19頁。
[vi] 同上、19頁。
[vii] 同上、22頁。
[viii] 同上、22頁。
[ix] 同上、23頁。
[x] 同上、23頁。
[xi] 同上、24-25頁。
[xii] 同上、22頁。
[xiii] 同上、24頁。Peter Musolf, The Godzilla Question(ピーター・ミュソッフ〔小野耕世訳〕『ゴジラとは何か』講談社、1998年)124頁。
[xiv] 同上、24頁。

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