第4節 三人の交差——円谷・本多・田中
1952年、講和条約の発効とともに活動制限が解かれた円谷英二は、東宝に復帰した[i]。10年近い技術者としての蓄積を持ちながら、戦後という新しい文脈の中で、その技術を何のために使うかという問いと向き合うことになった。
同じ撮影所に、本多猪四郎がいた。
本多は1911年(明治44年)、山形県に生まれた。東宝に入社後、山本嘉次郎監督に師事し、助監督として映画制作を学んだ[ii]。しかし本多の戦中は、円谷のそれとは根本的に異なるものだった。本多は召集され、中国大陸の戦線へと送られた[iii]。本多が目にしたのは、戦場の現実だった。敗戦後、中国から復員した本多は、焼け野原となった日本の都市を自分の目で見て帰った。その体験は、本多の内側に深く刻まれた。
円谷は後方で技術を提供した。本多は前線で戦争の現実を見た。
この非対称は、単なる経歴の違いではない。「現実にないものを現実のように見せる技術」を磨いてきた円谷と、現実の戦場を自分の目で見てきた本多——この二人が同じ作品に向き合うとき、そこには異なる質の「現実」への眼差しが交差することになる。
そこに三人目の男が現れた。
田中友幸は1910年(明治43年)、大阪に生まれた。関西大学経済学部を卒業後、のちに東宝に吸収合併された大宝映画に入社し、プロデューサーとして映画制作に携わってきた[iv]。
1954年、田中はインドネシアに出張した。日本とインドネシアの合作映画の企画を進めるためだったが、この企画は現地の事情により頓挫した。このため、田中は新たな企画を構想し始めたとされる[v]。
企画の直接の引き金として、前年にアメリカで公開された『原子怪獣現わる』(1953年)の存在が指摘されることもあるが、田中自身の証言によるものではなく、後の研究者による推論である[vi]。
確かなことは、田中がこの企画を東宝の経営陣に提案し、通したということだ。1954年、製作が決定した。監督には本多猪四郎が、特撮監督には円谷英二が起用された。
ここで改めて問いを立てる。
なぜこの三人だったのか。
田中の企画立案の意図、本多の起用の経緯、円谷の復帰直後という時期——これらが重なったことに、どこまで「必然」を見出せるかは、資料の裏づけを待たなければならない。しかし少なくとも一つのことは言える。異なる戦争体験を持つ三人が、同じ作品に向き合ったという事実だ。
後方で技術を磨いた者、前線で現実を見た者、企画を形にした者——この三者の交差が、ゴジラという作品に何をもたらしたか。その問いへの答えは、次章「ゴジラは何者か」で正面から論じることになる。
[i] 本章第2節を参照。
[ii] BIOGRAPHY, Ishiro Honda.com
[iii] Ibid.
[iv] コトバンク「田中友幸」
[v] 中島紳介「本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆 「101年目の本多猪四郎」特別編(上)」Ishiro Honda.com
[vi] 中島氏は前掲論考で、「アメリカ映画『原子怪獣現わる』を念頭に置いて、従来の日本映画にはない大がかりな特撮を駆使したスペクタクル作品を企図していたと思われる」と書いているが、この文章の注2では「田中本人はこの作品を知らなかったと発言したことがあるが、あの敏腕プロデューサーが意識していなかったとは考えにくい」と書いており、推論の域を出ていない。
