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第2節 円谷一と円谷皐――ウルトラシリーズの経営と継承

「プロデューサーとは何をする仕事か」という第1節の問いに、おそらく最も切実な形で答えを迫られたのが円谷一(つぶらやはじめ)だった。TBS
映画部で副部長兼プロデューサーを務めていた円谷一は、1969年、父・円谷英二の体調悪化を受けてTBSを退社し、円谷プロダクションに入社する。
翌1970年、英二の病死により円谷プロ2代目社長に就任すると、「社長と
監督は兼任できない」と自ら宣言し、以後は演出の現場から退いてプロデューサーに徹した。財政難にあえぐ会社を立て直すべく低予算の『ウルトラ
ファイト』を制作したのち、1971年には『帰ってきたウルトラマン』(TBS)と『ミラーマン』(フジテレビ)を同時にプロデュースし、第二次怪獣ブームの牽引役となった。

しかし、その再建は道半ばで途絶える。1973年2月9日、円谷一は脳出血の
ため急逝した。享年41。父・英二の死からわずか3年後のことだった[i]

兄の急死を受けて3代目社長に就任したのが、次男の円谷皐(つぶらやのぼる)である。以後20年以上にわたって経営トップの座にあった皐は、「ウルトラマンキッズ」をはじめとする各種イベント・キャラクタービジネスを
本格化させ、円谷プロを番組制作会社から版権ビジネスの主体へと作り替えた立役者となった。

だがその一方で、皐のワンマン経営は東宝・TBSという有力な出資企業との関係を悪化させ、資金の私的流用等のスキャンダルや、資金繰りのために
タイの制作会社へキャラクター使用権を譲渡してしまう、いわゆる「チャイヨー問題」といった深刻な禍根も残した。円谷プロ第6代社長を務めた円谷英明は、この時代を一族の内側から振り返った自著の中で、そう総括して
いる[ii]

皐の20年余りの在任は、ウルトラマンを一本の番組から、版権によって延命し続けるキャラクターへと転換させた、経営面での長期的な作家性と呼びうるものかもしれない。だがそれは同時に、第1節で提示した仮説への重要な留保でもある。皐が刻んだ痕跡は、特定のエピソードの演出や台詞ではなく、契約書と経営判断の集積として残っており、その功罪は分かちがたく
絡み合っている。

円谷一・円谷皐という両者の軌跡は、継承という主題が一様ではないことを教えてくれる。円谷一が体現したのは、創業者の死という危機に際して現場から経営へと引き上げられ、志半ばで倒れた継承である。円谷皐が体現したのは、番組を版権ビジネスへと転換させた、功罪相半ばする経営的継承である。次節では、この経営と継承の物語からいったん離れ、番組の内容そのものに深く介入した一人のプロデューサー――橋本洋二――に目を向ける。



[i] 白石雅彦『円谷一――ウルトラQと"テレビ映画"の時代』双葉社、2006年。
[ii] 円谷英明『ウルトラマンが泣いている――円谷プロの失敗』講談社現代新書、2013年。

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