第7節 富山省吾・土川勉・市川南――ゴジラとガメラを動かした興行という戦場
平成ゴジラVSシリーズを長く率いた田中友幸は、1991年の『ゴジラVSキングギドラ』の頃から体調を崩し、以後は自宅で療養しながら東宝スタジオを視察する形となり、現場の実務は次第に富山省吾へと移っていった。田中の体調不安を踏まえ、東宝の高井英幸は富山の肩書きを変更するよう提案したが、富山自身はこれを、事実上自分が現場を取り仕切っていた実態を追認
したものに過ぎず、仕事の中身そのものは何も変わらなかったと振り返っている[i]。
富山自身の言葉を借りれば、プロデューサーの仕事とは、監督やスタッフが「もっと撮りたい」と望む欲求と、興行スケジュールという動かせない制約との間で綱渡りを続けることだった。本編の撮影日数を45日と見積もれば、特撮にはその1.5倍以上の日数を用意し、それでも足りなくなる。だが東京
国際映画祭という上映の締め切りを守らなければならない以上、追加の日数を認めるわけにはいかない。それでも毎年一本ずつゴジラを送り出し続けられたのは、スタッフの誰もが締め切りに向けた綱渡りの勘所を熟知していたからだと、富山は語っている[ii]。
この手堅さは、しばしば「保守的」「マンネリ」という印象で語られることがある。だが、平成・ミレニアムのゴジラシリーズが、必ずヒットさせなければ次作が作られないという興行上の制約の下にあったことを踏まえれば、その安定した持続それ自体を功績と見る余地もある――これは本稿独自の
見立てだが、富山自身が明かす興行スケジュールとの綱渡りを踏まえれば、十分に成り立つ評価だろう。
富山とほぼ同時代、まったく異なる資源的制約の中でシリーズの存続を
託されていたのが、大映(徳間書店)の土川勉である。1995年、ガメラ復活を託された土川のもとに用意された予算は、ガメラ昭和シリーズの伝統に
忠実な、わずか5億円だった。監督に望まれた金子修介と脚本の伊藤和典は、本来『ゴジラVSモスラ』への参加を望んでいたこともあって乗り気ではなく、あまりの低予算に落胆してギャグ路線への転換すら覚悟したという。だが、金子が最低でも6億円を求めたことを受け、徳間書店は日本テレビ・博報堂と契約を結んで予算を確保し、樋口真嗣を特技監督に迎え入れたことで、「怪獣映画の王道」を目指す方針が定まった[iii]。
この賭けは報われた。『ガメラ 大怪獣空中決戦』は、怪獣映画として史上初めてキネマ旬報の邦画ベストテンに入り、ヨコハマ映画祭監督賞、ブルーリボン賞など複数の映画賞を獲得した[iv]。富山が「安定」によってシリーズを延命させたのに対し、土川は乏しい予算という制約そのものを、かえって作家的な賭けへと転じさせた形になる。
そしてもう一人、まったく異なる形でこの構図に加わったのが、東宝の市川南である。1966年東京都生まれ、1989年に東宝へ入社し、宣伝プロデューサーとして『千と千尋の神隠し』などを手がけたのち、企画プロデューサーとして『世界の中心で、愛をさけぶ』『永遠の0』を成功させた市川は、2016年『シン・ゴジラ』の製作を託される。もっとも本人は、実はゴジラのプロデューサーをやるのは気が進まなかった、と後に笑って振り返っている[v]。
庵野秀明は当初から、恋愛や家族、友情といった人間ドラマを排除する方針をはっきり伝えていた。だが東宝との折衝を重ねる中で、人間ドラマの要素は幾度となく脚本に足されていき、初期のプロットには、主人公の父親が事故で退場し元交際相手の女性官僚がその遺志を継ぐという展開まで存在した[vi]。これに対し庵野は、もし人間ドラマ重視の路線を続けるならこの企画から降りる、という趣旨の意向を伝えたという[vii]。最終的に人間ドラマを排し、政治家たちの意思決定過程そのものを軸に据えるという、庵野の当初の構想どおりの形で作品は完成した。ハリウッド式の感情移入装置を排した
この選択は、通常であれば製作サイドから懸念の声が出てもおかしくない
ものだったが、東宝はこれを受け入れた。
富山、土川、市川――三者三様の姿は、プロデューサーという仕事を「商業的制約」の一言で片づけることの危うさを教えてくれる。富山は制約の内側で四半世紀にわたりシリーズを守り抜いた。土川は乏しい予算という制約
そのものを、作家的野心への跳躍台に変えた。そして市川が体現したのは、東宝という組織自体が抱えがちな保守的な本能と、一人の作家の構想とが
せめぎ合った末に、最終的には後者が押し通されるという顛末だった。三者に共通するのは、「商業」と「作家性」を単純な対立関係として描くことのできない、それぞれに固有の綱渡りだったということである。
[i] 富山省吾(聞き手・清水俊文)「プロデューサー・田中友幸の想い出」木原浩勝・清水俊文・中村哲編『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代』角川書店、2010年、134-139頁。
[ii] 「【俺とゴジラ】第一回 元東宝映画 代表取締役社長 プロデューサー 富山省吾氏(後編)」ゴジラ・ストア公式サイト。監督やスタッフの「もっと撮りたい」という要求と、東京国際映画祭の上映スケジュールという制約との間での采配について、富山自身が語っている。
[iii] 電撃ホビーマガジン編集部編『平成ガメラパーフェクション』KADOKAWA〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年、200-205頁「平成ガメラ スタッフインタビュー 金子修介」。
[iv] 久保田和馬「金子修介、樋口真嗣両監督が証言!いまなお愛される『平成ガメラ三部作』"特撮"の魅力とは」MOVIE WALKER PRESS、2021年。『ガメラ 大怪獣空中決戦』が怪獣映画として史上初めてキネマ旬報の邦画ベストテンに入り、ヨコハマ映画祭監督賞、ブルーリボン賞など複数の映画賞を獲得したことを、土川勉プロデューサーへのインタビューとともに紹介している。
[v] 「東宝はなぜ『シン・ゴジラ』を庵野秀明氏に託したか〜東宝 取締役映画調整部長・市川南氏インタビュー〜」Yahoo!ニュース エキスパート(境治)、2016年。市川南の経歴(1966年東京都生まれ、1989年東宝入社、宣伝プロデューサーとしての『千と千尋の神隠し』等、企画プロデューサーとしての『世界の中心で、愛をさけぶ』『永遠の0』)と、「ゴジラのプロデューサーをやるのは気が進まなかった」という本人の述懐を記載している。
[vi] モルモット吉田「『シン・ゴジラ』脚本から見えた"もう一つの物語" 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』徹底考察」Real Sound、2017年。『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』所収のプロット稿をもとに、中期プロット段階(庵野・神山連名『庵野G/プロット改訂版』2013年12月27日付以降)で、和解しないまま父の死を知る主人公と、それを支えるヒロインの女性官僚が描かれていたことを紹介しており、本文の記述を補助的に裏づける。ただし同記事では「元交際相手」という関係性までは明記されていない。一次資料は『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』(株式会社カラー、2016年)p.490。
[vii] 「『シン・ゴジラ』でも庵野秀明の原案を東宝が繰り返し改変…アニメは原作尊重」ビジネスジャーナル、2024年。『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』(グラウンドワークス)を典拠に、庵野が当初人間ドラマの排除を伝えていたにもかかわらず、東宝との折衝の中で人間ドラマの要素が繰り返し脚本に加えられ、庵野が人間ドラマ重視の路線が続くならこの企画から降りる旨の意向を伝えたことを記載している。
