見出し画像

第2節 改造人間の呪い——本郷猛はなぜ「被害者」でありながら「戦士」なのか

顔が決まったところで、次に問うべきは、その顔の下にいる人間の物語である。

テレビ版の設定によれば、本郷猛は城南大学生化学研究所に所属する学生であり、知能指数600、スポーツ万能という、頭脳・肉体ともに類まれな能力の持ち主だった[i]。その優秀さこそが、彼を悲劇に導く。世界征服を企む
秘密結社ショッカーは、まさにこの能力の高さゆえに本郷に目をつけ、彼を拉致して改造手術を施す[ii]。本郷が悪の組織に「選ばれた」理由は、彼に
何か特別な悪意や弱さがあったからではない。ただ優秀であったこと、それだけである。

ここに、仮面ライダーという物語の最初の残酷さがある。本郷は、何ら過ちを犯したわけではない。むしろ、有能であったという、ただそれだけの理由で怪物にされかけた。改造人間になるかどうかを分けたのは、本人の意志でも罪でもなく、外部からの評価という、本郷にはどうにもできない偶然である。

しかし、本郷が完全な怪物にならずに済んだのもまた、彼自身の意志の力によるものではなかった。ショッカーの生化学研究所には、本郷の恩師にあたる緑川博士(緑川弘)が拉致され、改造人間研究に協力を強いられていた。緑川は、組織の真の目的を知るに至り、脳改造の直前というぎりぎりの段階で本郷を救出する[iii]。ただし、この緑川という人物は、単なる無垢な救済者ではない。彼は、そもそも本郷をショッカーの被験体として推薦した張本人であり、その負い目を抱えながら、ショッカーへの反逆を恐怖心とともに迷い続けていた末に、ようやく本郷を逃がすという行動に踏み切っている[iv]。本郷を救ったのは、無条件の善意ではなく、加害への自覚から生まれた、
遅すぎたかもしれない贖罪だったのである。

この構造は、注意深く見ておく必要がある。本郷猛は、自らの意志で「悪に屈しない」という選択をしたのではない。彼は、他人の罪悪感によって、
たまたま脳改造という最後の一線の手前で救われた。もし緑川博士が黙ってショッカーに協力し続けていたなら、本郷は洗脳された怪人の一人として、何の葛藤もなく人類の敵になっていたはずである。「悪の組織に改造されながら、悪に従わない」という仮面ライダーの根幹設定は、本郷という人間の強靭な意志の物語である以前に、緑川という別の人間が、土壇場で見せた
良心の物語なのだ。

もっとも、この救出劇には、もう一つ見過ごせない逆説がある。本郷が脳改造直前の実験室から実際に脱出できたのは、すでに彼の身体に施されていた改造——常人には不可能な跳躍力——のおかげだった[v]。つまり、本郷を
自由にしたのは、彼がまだ人間だった部分ではなく、すでに怪物にされて
しまった部分である。仮面ライダーという物語における自由とは、怪物化を免れることによってではなく、怪物化がすでに進行した身体を使って、かろうじて怪物化の最終段階(自我の消去)だけを免れる、という際どい形でしか成立していない。本郷は、怪物であることをやめられたのではない。完全な怪物になることの手前で、かろうじて踏みとどまっただけなのである。

この構図は、物語がもう一人の仮面ライダーを生み出す場面で、興味深い
変化を見せる。フリーカメラマンの一文字隼人もまた、その卓越した格闘技の能力をショッカーに見込まれ、第2の仮面ライダーとして改造されようとする。しかし一文字は、脳改造の前に本郷によって救出される[vi]。ここで
注目すべきは、この救出の主体の変化である。本郷を救ったのは、加害者側の贖罪という、本郷自身にはどうにもならない偶然だった。しかし一文字を救ったのは、すでに怪物であることを引き受けていた本郷自身の、能動的な選択である。物語は、「たまたま救われた者」から、「みずから他者を救う者」へと、主体の位置を一段階前進させている。仮面ライダーというヒーロー像は、この意味で、単に「悪から逃れた被害者」であることを超えて、「かつて自分がされたのと同じ理不尽を、他者に繰り返させないために戦う者」として、二人目の登場によって初めて完成する。

テレビ版は最終的に、本郷と一文字がショッカーの後継組織ゲルショッカーの首領を追い詰め、これを自爆させて組織を完全に壊滅させるという、勧善懲悪の枠組みの中で幕を閉じる[vii]。怪物にされかけながらも、最後まで
人間の側に踏みとどまり続けた二人の戦いは、勝利という形で報われるのである。

もっとも、これはテレビ版に固有の結末である。石ノ森自身が手がけた漫画版では、一文字隼人はそもそも脳改造前の救出候補としてではなく、新聞
記者を装ってショッカーライダーの一員として本郷暗殺のために送り込まれた刺客として登場する[viii]。つまりテレビ版が「本郷による一文字の能動的な救出」として描いた関係を、漫画版はそもそも成立させていない。一文字は救われる側ではなく、加害する側として物語に登場するのである。本郷は一文字を含む十二人のショッカーライダーの襲撃を受けて落命し、一文字は味方の誤射による偶発的な洗脳解除の後、本郷の遺志を継いで戦うことを誓う。ただし、本郷はこれによって完全に失われるわけではなく、脳のみが保存されて一文字と意志を通わせながら生き続けることになる[ix]

ここで、慎重な留保を挟んでおきたい。漫画版のショッカーは、「選ばれた者たちだけで人類を家畜のように支配しようと目論む」秘密結社として設定されている[x]。これは、特定の権力機構を名指した社会風刺というより、
選民思想そのものへの批判として読むべき記述であり、本書はこれを、特定の実在組織への当てこすりと断定する根拠を持たない。この点は、慎重に
扱う必要がある。

以上のように、テレビ版と漫画版とでは筋立てが大きく異なるものの、洗脳解除の契機が最後まで偶発的な出来事にとどまるという点では、両者は共通している。

こうして見ると、「悪の組織に改造されながら、悪に従わない」という仮面ライダーの主題には、二つの異なる層があることが分かる。一つは、洗脳の完成を免れるという契機の層であり、これは本郷にとっても一文字にとっても、他者の贖罪や他者の能動的な行動という、当人にはコントロールでき
ない偶然によってもたらされた。しかし、もう一つの層——怪物として与えられてしまった身体と能力を、その後何のためにどう使うかという選択の層——は、これとはまったく性質が異なる。本郷は、緑川博士に救われた
あと、人類を守るために戦うことも、姿をくらまして怪物として生きることも、あるいは誰にも知られず息を潜めて生きることも、理屈の上では選べたはずである。一文字もまた同様である。二人がショッカーと戦うことを選んだのは、洗脳から免れたという受動的な事実の延長ではなく、そこから先に踏み出した、能動的な決断だった[xi]

したがって、本郷と一文字を「怪物性を克服できない、頼りなさを抱えた
ヒーロー」と位置づけるのは、正確ではない。むしろ彼らは、怪物になる/ならないという最初の分かれ目こそ自分では選べなかったものの、怪物に
なってしまった後に何をするかという、より重要な分かれ目においては、
はっきりと自分の意志で選び取っている。第1章の問い——怪物に改造された自分自身をどう引き受けるのか——に対する仮面ライダーの回答は、この二層構造のうちに見出すべきである。すなわち、怪物になるかどうかは選べない。しかし、怪物になった自分の力を、誰のために、何のために使うかは選べる。仮面ライダーが体現しているのは、意志の力による怪物性の
「克服」ではなく、克服できない出自を引き受けたうえで、その力の使い道について下される、日々更新され続ける意志的な選択なのである。

この理解は、本書独自の思弁にとどまるものではない。秋保慎太郎は、河合隼雄の物語論とエーリッヒ・フロムの議論を接続する枠組みから、『仮面
ライダー』を、神仏のような超越的な審級による善悪の保証がすでに機能しなくなった後の物語として位置づけている。秋保によれば、本郷たちが体現するのは、「人を超えたところから現れる神仏による解決」ではなく、個人が自らの行動によって善悪の基準をそのつど再構築し続けるという、いわば手作業的な倫理である[xii]。理論的な経路はまったく異なるが、この見立ては、本書がここまで論じてきた二層構造——怪物になるかどうかは選べないが、その力を何のために使うかは選べる——と、驚くほど近い場所に着地している。

しかし、この「怪物になった自分の力を、何のために使うか」という主題が、視聴者の身体に刻み込まれる回路として機能するためには、もう一つの要素が必要だった。それが、「変身」という行為そのものの様式化である。次節では、この参加型の身体儀式が、当初の設計としてではなく、一つの
偶発的な事故を経て、いかにして確立されていったかを見ていく。



[i]本郷猛」仮面ライダー図鑑。
[ii] 同上。
[iii] 同上。
[iv]緑川弘」仮面ライダー図鑑。
[v] 『仮面ライダー』第1話本編9分目。
[vi]一文字隼人」仮面ライダー図鑑。
[vii] 『仮面ライダー』第98話(最終話)本編18~20分目。
[viii] 石ノ森章太郎『仮面ライダー』「13人の仮面ライダー」(『週刊少年マガジン』1971年29号-34号)。一文字隼人がこの時点でショッカーライダーの一員であり、新聞記者を装って本郷抹殺を命じられていたことについては、『仮面ライダー(石ノ森章太郎デジタル大全)』(講談社、電子書籍版)第2巻あらすじ、および石ノ森章太郎『仮面ライダー 下巻〈一文字隼人編〉』(KADOKAWA、2005年11月10日)の紹介文でも確認できる。
[ix] 石ノ森章太郎『仮面ライダー』「13人の仮面ライダー」(『週刊少年マガジン』1971年29号-34号)。本郷猛の死および一文字隼人の洗脳解除の経緯については、『仮面ライダー(石ノ森章太郎デジタル大全)』(講談社、電子書籍版)第2巻・第3巻あらすじでも言及されている。
[x] 石ノ森章太郎『仮面ライダー』本編の記述(『週刊ぼくらマガジン』・『週刊少年マガジン』、1971年連載)。ショッカーが選ばれた者たちによる優生思想結社として設定されていることについては、『石ノ森章太郎キャラクター図鑑 Volume002 仮面ライダー+中期作品編』(ぶんか社、2001年3月20日)に詳しい。
[xi] この2段落(洗脳解除の契機と、力の使い道の選択とを区別する二層構造の議論、および第1章の問いへの回答としての位置づけ)は、外部資料からの引用ではなく、本書独自の分析(根拠ある推論)である。
[xii] 秋保慎太郎「仮面ライダーはなぜ人々に共感されるのか」(東北大学大学院情報科学研究科修士論文、2011年)。河合隼雄『神話と日本人の心』(岩波書店)およびエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)を理論的枠組みとし、『仮面ライダー』を、共同体の「善悪の因果関係」が破綻した後に、個人が自らの行動によって善悪の基準を再構築する物語として分析する。

いいなと思ったら応援しよう!