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第3節 「恐竜」という第三の読み——文明以前の力、あるいは敗戦国の代償

 前節までに見たのは、ゴジラを「核」あるいは「戦争の死者」という、
近現代の日本が経験した具体的な歴史と結びつける読みだった。しかし、
本章の冒頭で確認した通り、山根博士が国会の専門委員会でまず示した説明は、もっと単純だった。これは水爆実験によって安住の地を追われた、侏羅紀から白亜紀にかけての生物の生き残りである、という説明である。老漁師の語った「海の怪物」を置き換えたのは、核そのものというより、まず
「恐竜」という形だった。

ここに、第1節の読みとの、一つの違いがある。第1節で見たゴジラの身体——ケロイド状の皮膚、骨化した背びれ——は、人間が作り出した苦しみの刻印だった。水爆という、人間自身の手による兵器が、その身体を形作っていた。しかし「恐竜」としてのゴジラは、人間が作り出したものではない。山根の説明によれば、ゴジラはもともとそこに——海底の洞窟に——存在していた。人間がしたことは、それを「作り出す」ことではなく、ただ
「起こしてしまう」ことだった。核の恐怖が人間の加害を体現するのに
対し、恐竜という設定が体現するのは、人間にはどうにもならない、文明
以前からの力を不用意に呼び起こしてしまったという、別の種類の不安
である。

ゴジラの容姿は、ティラノサウルスの頭部と上半身に、イグアノドンの胴体、ステゴサウルスの背びれを組み合わせたものとして造形された[i]。核に汚染された身体である以前に、ゴジラはまず、人類の文明よりも古い時代の生き残りとして提示される。

この発想の系譜には、もう一つ、前年にアメリカで公開された映画の存在が指摘される。レイ・ハリーハウゼンが特殊技術を担当した『原子怪獣現わる』(1953年)は、核実験によって眠りから覚めた古代生物が大都市を破壊
するという筋立てを持ち、『ゴジラ』のプロットと著しく似ている。しかし前章で確認した通り、企画者・田中友幸自身はこの作品を知らなかったと
発言したことがあるとされ、影響関係は研究者による推論の域を出ていない[ii]。広く語られている系譜であることと、確証があることは、ここでも別の話である。

「恐竜」という読みは、一見すると単純だ。文明が眠らせていた太古の力が、人間の手によって不本意に呼び起こされ、暴れる——これは『キング・コング』以来、怪獣映画というジャンルが繰り返し語ってきた構図でもある。

しかし、この構図には、見過ごされやすいもう一つの層がある。
日本文学研究者スーザン・ネイピアは1993年の論文で、初代『ゴジラ』が
複数の思想的なレベルで機能していると論じている。第一に、この映画は、広島・長崎の原爆の悲劇への明白な参照によって、アメリカの核科学を悪役として描く。第二に、「善良な」日本の科学が怪物に勝利するという、伝統的なSF映画の定型——幸福な結末——をこの映画に成立させる。この二つが組み合わさることによって、初代『ゴジラ』は公開当時の日本の観客に、「発散的」かつ「代償的」な経験を提供した。それは、自分たちの悲劇的な戦争体験を、想像のなかで書き直す、あるいは少なくとも別の形で思い描き直す機会だった——ネイピアはそう論じている[iii]。

これは、第1節の終わりに残した疑問——ゴジラはなぜ、核を生み出した
アメリカではなく、日本を脅かすのか——という問いへの、一つの部分的な
答えになるかもしれない。怪物の攻撃の矛先は、最後まで東京に向かい、
アメリカ本土には向かわなかった。しかし、ネイピアの読みに従うなら、
非難の矛先は、確かにもう一つの場所でアメリカに向けられていた。映画は、怪物を生み出した「悪役」をアメリカの核科学だと名指し、それを打ち倒す「善良な」科学を日本に担わせることによって、攻撃の対象としてではなく、断罪の対象として、アメリカを物語の中に位置づけていたのである。

この読みに立つなら、「恐竜」という設定は、単に文明以前への郷愁を呼び起こすだけのものではない。アメリカの核科学を悪役とし、日本の科学に
それを打ち倒させるという物語の構造そのものが、現実の歴史では負けた
戦争を、映画というフィクションでは科学の力で勝ち直すという想像上の
書き直しを可能にする。これが、この第三の読みの核心になる。

だが、ここで一つの違和感が残る。
もし『ゴジラ』が、日本の科学が太古の脅威を鎮めるという代償的な物語であるなら、その物語は本来、勝利の物語として終わるはずだ。芹沢博士は、国を救った英雄として称えられても、よかったはずである。

しかし映画はそうならない。芹沢は、自らの発明を世に出すことを拒み、
ゴジラとともに海に沈む。代償的な物語は、悲劇的な英雄の死を排除しない。しかしその死は、称えられ、記憶されることによって、なお代償としての役割を果たすことができるはずだ。芹沢の死は、その形を取っていない。

なぜ、この物語は「代償」を、まっすぐに受け取らせてくれないのか。
次節では、この問いに向かう。



[i] ゴジラの造形について。ウィキペディア「ゴジラ(架空の怪獣)
[ii] 中島紳介「本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆 「101年目の本多猪四郎」特別編(上)」Ishiro Honda.com
https://ishirohonda.com/contribution27/
中島氏は前掲論考で、「アメリカ映画『原子怪獣現わる』を念頭に置いて、従来の日本映画にはない大がかりな特撮を駆使したスペクタクル作品を企図していたと思われる」と書いているが、この文章の注2では「田中本人はこの作品を知らなかったと発言したことがあるが、あの敏腕プロデューサーが意識していなかったとは考えにくい」と書いており、推論の域を出ていない。
[iii] Susan J. Napier, "Panic Sites: The Japanese Imagination of Disaster from Godzilla to Akira," Journal of Japanese Studies, Vol. 19, No. 2 (Summer 1993), pp. 331–332. JSTORにて閲覧可能(要登録)。
https://www.jstor.org/stable/132643

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